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COVER STORY 【MARILLION : BRAVE 30TH ANNIVERSARY】


COVER STORY : MARILLION “BRAVE” 30TH ANNIVERSARY !!

“We Knew It Wasn’t Immediate, We Just Hoped That People Would Give It The Time Of Day And Allow It To Grow On Them.”

BRAVE


30年前、”Brave” というレコードが全英アルバム・チャートで10位を記録しました。その9年前にヒットしたシングル “Kayleigh” で知られていたバンドが、別のシンガーをフロントマンに起用した作品です。今となってはすっかり昔の話ですが、バンドは今でも精力的に活動を続けていて、今でも最高到達点を更新し、今でも筋金入りのファンたちは “Brave” 記念日を盛大に祝っているのです。しかし、そのバンド、MARILLION はなぜこれほど強力なファンベースを今でも維持できるのでしょうか。そして、”Brave” リリース後に何が起こり、彼らはプログの新境地におけるパイオニアとなったのでしょうか。MARILLION の長く奇妙な旅路を振り返ります。
まず事実の整理から。MARILLION は1979年に結成され、1982年から1988年の間に4枚のスタジオ・アルバムをリリース。ポスト・パンクから現れた変則的なプログ・バンドから、ヒット曲を持ちテレビ出演を果たす正真正銘のロック・バンドへと成長していきました。Fish は、GENESIS 時代の Peter Gabriel のようなシアトリカルな雰囲気を漂わせながら、愛、薬物乱用、パラノイアをテーマにエッジの効いた現代的な歌詞を放つスコティッシュとしてバンドの顔となります。そうして彼らは、パンクに挫折したロック・ファンや、その鋭いフックに魅了されたポップ・ファンを取り込み、瞬く間に支持を得ていったのです。
1985年のアルバム “Misplaced Childhood” では、シングル “Kayleigh” が2位を記録する大ヒットとなり、アルバムはチャートのトップに躍り出ました。しかし、Fish の歌詞にある薬物によるパラノイアが単なる演技以上のものであることが判明するなど、舞台裏ではすべてがうまくいっていたわけではありませんでした。もう1枚アルバムを出した後、Fish は脱退し、MARILLION はすべてを使い果たしたように見えました。しかし、これは驚くべき第2幕の始まりに過ぎなかったのです。

1989年、バンドは新しいシンガー Steve Hogarth を迎えて “Season’s End” をリリースします。Fish 時代の忍び寄るメロドラマは、成熟し洗練された絵画に変わり、アルバムはヒット。バンドにまだ命があることを示しました。Fish は紛れもなくカリスマ的ポップ・スターで、ウィットに富み、物知りで、名声ゲームに惹かれると同時に反発するような人物でしたが、Hogarth は目を見開き、誠実で、正直な情熱を音楽に注ぎました。
ただし、その後のアルバムはチャートへの食い込みが弱くなり、ヒット、ポップ・スターダムは遠い過去の出来事のように思えました。レコード・レーベルであるEMIも、ヒット作を出すことができなかったバンドのコストが急騰するのを防ぐため、安価なその場しのぎのアルバムを望んでいました。
1994年。そうした背景の中で MARILLION は、セヴァーン橋で彷徨っているところを発見された少女をテーマにしたコンセプト・アルバムを携えて再登場しました。Hogarth はこれまでで最も感情的な歌詞を掘り下げ、この悲劇的な少女のあらゆる側面を探求しました。一方バンドは、ギタリストの Steve Rothery が心を揺さぶるソロと魅惑的なテクスチャーを何度も繰り出しながら、最も鋭敏な音楽を作り上げたのです。それは MARILLION が個人的なテーマから社会的なテーマへと、商業的な成功から芸術的な成功に舵を切った瞬間でした。

80年代半ば、Hogarth は地元のラジオ放送で、イギリスのセヴァーン橋で一人でさまよっているところを発見された10代の少女についての、警察の説明を聞きました。発見されたとき、彼女は誰とも話すことができなかったか、あるいは誰とも話さないことにしていたのです。しばらくして、警察はラジオで少女の身元を知る人に対して呼びかけることにしました。結局、少女は家族に引き取られ、家に戻されたのですが、Hogarth はこのことをメモし、MARILLION が後のアルバム “Brave” の制作に取りかかるまで、何年もあたためておいたのです。
制作に入ると Hogarth は橋の上の少女のことを思い出し、アルバムが彼の頭の中で形になっていきます。バンドは “Living with the Big Lie”と “Runaway” の2曲を書き、前者は人々がいかに物事に慣れてしまい、すっかり鈍感になってしまうかを歌ったもので、後者は機能不全の家庭から抜け出そうとする少女の苦境を歌ったものになりました。Hogarth はこのストーリーをバンドに話し、性的虐待(当時メディアでますます報道されるようになったテーマだった)、孤立、薬物中毒、そして自殺を考えたり試みたりするほどの衰弱といった問題や恐怖を持つ人生という架空の物語を提案したのです。
セヴァーン橋は1966年に開通して以来、自殺の名所となっており、名もなき少女のような悩める魂を惹きつけてやみません。彼女は自分の名前を名乗ろうとせず、話すことさえ拒否しました。警察はラジオやテレビで情報提供を呼びかけ、その時、Hogarth は彼女のことをはじめて耳にしました。
「まるで推理小説の最初のページのようだと思った。走り書きして、そのことはすぐに忘れたんだ」
しかし、”飛び降りなかった少女” の物語は、Hogarth の心の奥深くに留まり、潜在意識の波のすぐ下に浮かんでいたのです。

Hogarth が再び彼女のことを考えたのは1992年のこと。その頃、彼は数年前に加入したバンド MARILLION のシンガーになっていて、バンドが新しいアルバムのために曲作りをしていたとき、彼はバンドメンバーに “飛び降りなかった少女” の話をしたのです。
この物語を中心に作られたアルバム “Brave” は、彼らのキャリアの中で最も重要な作品となりました。このアルバムによって、彼らの将来が決まったのです。”Brave” は、バンドとしての彼らを最終的にひとつにまとめましたが、同時に長年のレーベルであるEMIとの関係を取り返しのつかないほど悪化させ、彼らの以前からのファン層を一気に遠ざける結果も伴いました。痛みを伴う改革。それが現在の彼らをもたらしたのです。
当時 “Brave” が大失敗した大博打に思えたとしても、今日では1990年代の偉大なコンセプト・アルバム、傑作として語り継がれているのは痛快なものがあります。知性と深みのある踏み絵のようなアルバム。つまり、セヴァーン橋の少女の物語は、MARILLION のメタファーとして読むこともできるのです。少女は飛び降りませんでしたが、MARILLION は飛び降りたのです。
「”Brave” は、ジグソーパズルのピースがついに揃ったアルバムだった。MARILLION は、私を加えた別のバンドになった。今のバンドになったんだ」
Hogarth と MARILLION のパートナーシップは、1989年の “Season’s End” で軌道に乗りましたが、それはある意味、反抗的な行為でもありました。
「多くの人が、Fish なしでは失敗すると思っていた。でも、メンバーはみんな一緒に仕事ができることに興奮していたし、あっという間だった。”今、自分たちはどんなバンドになりたいのか?”ということを考えるために立ち止まることはなかったね」

キャリアを始めて10年以上が経ち、MARILLION は貴重な教訓を得ていました。「EMIのやり方で商業的なレコードを作ろうとしたが、うまくいかなかった。売れても売れなくても、少なくとも芸術的には満足できる作品を作ろう」
彼らの次の行動は、正反対の方向に進むこと。”Holidays in Eden” が素早く、きらびやかで、最終的にはある種の妥協だったとすれば、”Brave” はそうではありませんでした。
“Holidays In Eden” と “Brave” の間に、MARILLION の世界ではいくつかの重要なことが変化しました。その中には、彼らがコントロールできるものもあれば、そうでないものも。ただ、彼らが下した重要な決断のひとつは、オリジナルのラケット・クラブに新しい機材を導入し、次のアルバムのために前金を使うことでした。
「レーベルは大反対だった。でも僕らは、”複数のアルバムに使えるよ” って言ったんだ。そのおかげで、後にEMIから契約解除された時のための準備ができたんだ。私たちは、ゆっくり仕事をし、あらゆる選択肢を模索し、音楽について熟考し、あごをひっかいたり、頭をなでたりするのが好きなんだ。そして、ここだけの話、”次のアルバムは好きなだけ時間をかけよう “と思ったんだ。そしてそうしたんだ」
そうして MARILLION は、南フランスの正真正銘のシャトーでレコーディングする機会を突然与えられました。ドルドーニュ地方のマルアットにあるその城は、バンドのUSレーベルIRSの代表であり、POLICE のドラマー、Stewart Copeland の弟の所有物件でした。
「そのアイデアが気に入ったんだ。そうだ、家を探そう、そうすれば費用も抑えられるし、雰囲気のある場所を探して、そこで仕事をしよう。僕らはみんな、それが面白いレコードになるし、冒険になると思ったんだ。夜が明けてすぐに着いたんだ。丘の上に見えて、基本的にのホラーハウスだったよ」

“Brave” は、実際に5人で書いた初めてのアルバムだったと Rothery は言います。
「コンセプト・アルバムであったからこそ、このアルバムは、私たちにとって、とても重要な作品となった。コンセプト・アルバムだったから、他のメンバーも私たちがやろうとしていることを理解しやすかった。私が思うに、今回はレコードを作るか、傑作を作るかのどちらかだ。だから、どうしてほしいか言ってくれとね。それでみんな、”傑作を作ろう” となった」
作業を進めるにつれて、曲は焦点が定まり始め、包括的なコンセプトも定まっていきました。橋の上の少女についての直接的な物語というよりは、彼女がそこにたどり着くまでの一連のスナップショット。さらに Hogarth によれば、歌詞の多くには自伝的な要素が薄っすらと隠されていたといいます。”Living With The Big Lie”, “Brave itself” そして特に “The Hollow Man”。
「私は動揺していた。外見はますますピカピカになり、ジャン・ポール・ゴルチエを身にまとっていた。小さな子供2人の父親でありながら、それに向いていない、そう感じていた。そのすべてのバランスを取りながら、バンドの運命を復活させるような素晴らしい作品を作り上げようとしたんだ」
すべての曲がコンセプトに合っていたわけではありません。”Paper Lies” の脈打つハード・ロックは、レーベルの強い要望でアルバムのムーディーな音楽の流れに刺激を与えるために収録されたもの。もともとは悪徳新聞王ロバート・マクスウェルの死にインスパイアされたもので、後付けで既存の物語に組み込んだに過ぎません。この曲の主題である、ヨットからの転落事故で謎の死を遂げたロバート・マクスウェルにちなんで、この曲は巨大な水しぶきで終わります。「この曲には VAN HALEN からの影響があるかもしれないね」

“完成したときでさえ、それが何なのかわからなかった” そう Hogarth は言います。
「ミックスを聴いて、とても緊張したのを覚えている。興奮すると同時に、”これは THE WHO の “Quadrophenia” か何かに似ている。みんなにどう評価されるかわからない” って思ったね」
地平線には他にも嵐が立ち込めていました。EMIは、MARILLION が “Brave” の制作に要した時間の長さに良い印象を抱いていませんでした。この 生々しい アルバムは、数ヶ月遅れで、しかも決して安くはなかったからです。Rothery は言います。
「その7ヶ月が終わるころには、レーベルとの関係には壁が立ちはだかっていた。素晴らしいレコードを作ったことが、この莫大な出費とレーベルとの関係の悪化を正当化できるほど成功することを願わなければならなかった」
EMIの失策。それはリスニング・パーティーで起こります。彼らは、さまざまなジャーナリストやラジオの重役を招待し、聴いているのが誰なのかを知らせないというやり方をとりました。
「あれはEMIの大失態だった。EMIは人々に PINK FLOYD の新しいアルバムだと思わせようとした。そうすれば、より多くの人がプレイバックを聴きに来てくれると思ったからだ」
しかし長い間、批評家の捌け口となってきたグループにとって、”Brave” は驚くほど好評でした。”Q” 誌は、このアルバムを “ダークで不可解” と絶賛。Hogarth はその表現にほほえみます。「私はそれが気に入った。褒め言葉だよ」
しかし、”ダークで不可解 “は、伝統的に商業的な成功とはイコールではありません。”Brave” は、ギリギリのところでUKトップ10に食い込みましたが、ファーストシングルの “The Hollow Man” は30位。続いてリリースされた軽快な “Alone Again In The Lap Of Luxury” はトップ50にすら入りませんでした。

ただ公平に見て、”Brave” のタイミングは最悪でした。”Brave” がリリースされたのは、ブリットポップ・ムーヴメントが花開き始めた頃。自殺願望のある少女をテーマにした70分のコンセプト・アルバムは、BLUR や OASIS の前では常に苦戦を強いられることになりました。
「即効性がないことはわかっていた。私たちはただ、人々がこのアルバムに一日の時間を与え、彼らの中で成長することを望んでいた」
ツアーでバンドはアルバムを最初から最後まで演奏し、Hogarth は Peter Gabriel 流に曲の登場人物を演じました。ある時は、髪をおさげにして口紅をつけ、女の子自身を演じます。これは意図的な挑戦でした。
「コンサート会場の雰囲気は、”クソッタレ、これは何だ?”という感じだった。アンコールで “Brave” 以外の曲を演奏したときは、まったく違うショーになった。人々が安堵のため息をついているのが体感できたよ」
ツアーもアルバムも、MARILLION のオーディエンスを増やす、あるいは維持することにはあまり貢献しませんでした。”Brave” のセールスは30万枚ほどで、今となっては良い数字ですが、5年前の “Seasons End” の半分以下だったのです。セールス的には、確かに以前より落ち込んでいました。
“Brave” が長引いたことと、明らかに成功しなかったことは、所属レーベルのトップも気づいていました。少なくとも次のアルバムではより速く仕事をすることを考えるべきだとバンドは認め、そのアルバム “Afraid Of Sunlight” は、”Brave” のちょうど1年後にリリースされました。しかし、すべては遅すぎました。彼らの予想通り、レーベルは間もなく彼らを切り捨てました。
「メディアから嫌われるバンドに戻ってしまった。メインストリームの音楽メディアを見る限り、私たちは生きる価値がなかった。いつも通りのね」

しかし、”Brave” には後日譚が。この “ダークで不可解 ” なレコードは、当時は売れ行きが芳しくなかったものの、今では独自の余生を過ごしています。彼らは過去20年の間に2度このアルバムを再訪し、2003年と2011年にアルバムをフルで演奏しています。
「”Brave” で多くのファンを失った」そう Hogarth は言います。「評判は良くなかった。だけど今では誰もが振り返って “なんて素晴らしいアルバムなんだ” と言う。発売された日には誰もそんなことは言わなかったのにね」
その長寿の理由のひとつは音楽的なもの。慎重なテンポ、移り変わるムード、日本語の使用や南仏の洞窟で岩が水しぶきを上げる音を録音するような細部へのこだわり。それは、究極の負け犬バンドによる究極の負け犬レコード。
「僕らを聴いてくれた人たちは、時間を投資することを厭わないんだ。彼らは、”よくわからなかったから次の作品に移る” のではなく、”ああ、よくわからなかったからもう1回聴いてみよう” と思ってくれるんだ」
結局、”Brave” は当時のチャートに知的で複雑なコンセプチュアル・ミュージックのスペースがまだあることを証明したのです。このアルバムから、わずか3年後にリリースされたレディオヘッドの “OK Computer”、そして ANATHEMA の傑作 “The Optimist” へと知性を求める音楽ファンは一本の線をたどることができるはずです。”The Optimist” は、無意識のうちに “Brave” のサイコ・ジオグラフィックな旅路と呼応しており、MARILLION が20年の後に発表する “F.E.A.R.” は “Brave” と非常に多くの特徴を共有するアルバムになりました。
Pete Trewavas は言います。「僕たちは、どこでも聴けるようなキラキラした音楽を演奏するためにここにいるんじゃない。何か違うことをやって、木々を揺らして、人々に考えさせるためにここにいるんだ。そうであってほしいし、今もそうでありたいよ」
橋の上の少女は結局、MARILLION のストーリーを知っているのでしょうか?Hogarth は、彼女の両親が彼女を迎えに来て、ウェスト・カントリーに連れ帰ったという記事を読んだことを覚えています。
「彼女はその後、それなりに幸せに暮らしたと思う。連絡は取っていないが、アルバムのことは知っているのではないかな」

後に小さなレーベルに移籍した彼らは、商業的な成功との闘いを続け、ついにはアメリカ・ツアーをする余裕がないことを認めざるを得なくなり、どん底に達します。しかしその後、非常に驚くべきことが起こりました。
そうした変化にもかかわらず、バンドには依然として強力なファンベースがあり、そのファンはますます熱狂的になっていました。MARILLION を見ることができなくなることを覚悟したアメリカのファンは、バンドをアメリカ国内で活動させるために6万ドルを出資。実質的に MARILLION はクラウド・ソーシングに成功した最初のバンドとなったのです。インターネットの台頭に注目した MARILLION は、自分たちのファン層と関わる前例のない方法を発見し、それまでは想像もできなかったレーベルを通さない “個人的な” つながりを築くことに成功したのです。
このファンとのつながりは、バンドだけでなく、音楽ビジネスのあり方にも大きな影響を与えました。ファンとの絆を築き、ファンのことを知り、ファンがバンドに何を求めているかを理解することで、MARILLION はレコーディング前にアルバム代金を支払ってもらうという前代未聞の過激な行動に出ることができました。1万枚以上の予約注文を受け、”Anoraknophobia” はファンによって支払われる、多くのメジャー・レーベルのアーティストが切望するような自主性を得ることができました。”ヒット” レコードを作らなければならないというプレッシャーがなく、すでに制作費用をまかなっていた MARILLION は、自分たちが望む、そしておそらくより重要なことですが、ファンが求める音楽を作ることができたのです。熱心なスポンサー (ファン) には、レコードに写真や名前を載せたり、アルバムの特別なヴァージョンを提供することで、彼らは自分たちのために新しい道を切り開くことをやってのけました。

この試みがバンドの新時代の幕開けとなった一方で、メインストリームのメディアで MARILLION は今だにオールディーズ・アクトとして一括りにされ、世間一般の認識も Fish の全盛期から真に前進していないというイメージに固執していました。ラジオやテレビで流されることはめったになく、バンドはカルト的で、流行に乗り遅れた存在だと思われていたのです。プログというジャンルがもはや消えかかっていたために、例え MARILLION について言及されたとしても、中世の吟遊詩人の一団で、リュートを演奏し、トロールについて歌っているのだと言われることも珍しくはありませんでした。彼らがもはや論理的には RADIOHEAD の “OK Computer” と接近していたことなど気にすることもなく、世間一般では、MARILLION のファンであることは最も時代遅れなロートルだと見なされていたのです。
クラウド・ファンディングが以前は手の届かなかった安全性を保証した一方で、バンド、特に Hogarth は、真剣に受け止められようとする試みに苦痛を感じていました。音楽がまだビッグ・ビジネスだった時代、MARILLION のメインストリームからの追放と彼らの熱狂的なファンは、奇妙で場違いな存在と見なされました。音楽プレスはバンド名を見て80年代を思い浮かべ、それに従って判断するだろうという諦めもありました。インタビューのたびに、Hogarth はジャーナリストたちに、先入観を捨てて、ただ恣意的に彼らを切り捨てるのではなく、実際に音楽を聴いてほしいと懇願しましたが、それは無駄骨でした。
その後、マリリオンは2004年の “Marbles” と2007年の “Somewhere Else” でヒット・アルバムとトップ20シングルを獲得し、チャートの上位に返り咲きました。しかし、チャートでの成功でさえも、バンドが以前のような地位を取り戻すことは簡単ではありませんでした。レコード・チャートは上位にランクインしていましたが、これは、自分たちの好きなバンドが特別な存在であることを世界中に知らしめようとする、ファン層の断固とした努力によるところが大きかったのです。ファンは MARILLION を広めるために極限まで努力する用意があり、こうしたチャートの順位は、バンドに対する外部からの純粋な関心というよりも、むしろファンの意志の強さを表していたのかもしれません。

この時期までに、MARILLION はファンの間でほとんど神のような地位を築いており、ファンもまた、グループに対する強烈な、時には極端なまでの愛情を示していました。Hogarth の指揮の下、このバンドは人生をサウンドトラック化するようになり、彼の複雑で情熱的なソングライティングは多くの人々にとってほとんどスピリチュアルな尊敬の念を抱かせるようになっていたのです。コンサートは、バンドへの愛を通して生涯の友情を築き、世界中の様々な場所で開催されるコンベンションに参加し、バンドはファンの好きな曲を演奏することで愛情に応えました。
多くのファンにとって、MARILLION は本当に重要な唯一のバンドであり、他のバンドが恐れをなして踏み入れないような場所に行く存在となりました。ここ数年、バンドに対する雪解けは進み、音楽メディアの間でも、バンドを受け入れようとする明確な動きが出てきました。バンドの成熟したロック・ブランドには “プログレ” の面影はほとんどなく、その一方で、最近のアラン・パートリッジの映画でバンドは小さいながらも重要な役割を果たすなど、否定的な人たちよりも長生きすることで、MARILLION の正しさが証明されたと言えるかもしれませんね。
MARILLION はロックの歴史に自分たちの特別な場所を残しました。彼らはあらゆる変化を乗り越えて、80年代の MARILLION に対する先入観が過去のものとなりつつある今、さらに多くの人々を、増え続けるファンの一員にしようとしています。ANATHEMA や PORCUPINE TREE のようなバンドがこのバンドに脱帽しているように、彼らが “Brave” で勇気を持って橋から飛び降りたことは、長い目で見れば奇跡的な “Made Again” だったのです。

参考文献: THE THIN AIR:20 Years of Being Brave – How Marillion Crawled Back From Obscurity

CLASSIC ROCK REVIEWMarillion Brave (1994) – The inside story behind Brave

MARUNOUCHI MUZIK MAG: FEAR INTERVIEW

NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【HENGE : ALPHA TEST 4】


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH ZPOR OF HENGE !!

“Since Landing On Earth, We Aim To Create Benevolent Sonic Weaponry To Combat Sadness And Bring Joy To Humanity.”

DISC REVIEW “ALPHA TEST 4”

「なぜ地球に降り立ったのか?それは、この星からの遭難信号を受信したから。深刻なレベルで危険なピークに達し、地球の住民の間に悲しみの伝染病が蔓延していることは明らかだった。イギリスのマンチェスターは、僕たちのミッションを開始するには良い場所のように思えた… 僕たちは、この都市を震源地とする “レイヴ” と呼ばれる最近の社会的/音楽的ムーブメントを知っていた。レイヴ・ミュージックは、異なる社会的背景を持つ人々を団結させることで知られているからね。だから、この場所から始めようと思ったんだ」
張本人には見えないことが、世界には多々あります。例えば、夏休みの宿題に手をつけていない、危険な男にひっかかる、タバコや酒をやめられない。周りから見ればヤバよりのヤバなのに、当の本人には危機感がまったくなくあっけらかんとしている。今の地球はもしかしたら、そんな状況なのかもしれませんね。
だからこそ、宇宙の音楽と地球の “プログレッシブ・レイヴ” で悲しみを癒しにやってきた地球外生命体 HENGE には、この星の危機的状況がよく見えています。
「音は強力な力になる。実際、僕たちの宇宙船マッシュルーム・ワンは音で動いているんだ。だからノム、グー、そして僕は、深宇宙を航行する毎日の日課として、いつも音楽を演奏してきたんだ。常に音楽を流してきた。地球に着陸して以来、僕たちにはエイリアンの周波数を人間の耳に適合させるのを手伝ってくれる人間がいる。そうして共に悲しみと闘い、人類に喜びをもたらす善意の音波兵器を作ることを目指しているんだ」
音楽は力になる。惑星アグリキュラーで生まれた異星人 Zpor は、アグリキュラー音階の海で育ち、音楽を栄養として摂取してきました。だからこそ、アグリキュラーの音楽 “コズミック・ドロス” にシリウス星系や金星の音楽を取り入れ、さらに地球のプログレッシブ・ロック、レイヴ、ゲーム・ミュージックとシンクロさせることで、唯一無二のポジティブな音波兵器 “Alpha Test” を完成させることができたのです。
“Alpha Test 4″ のA面には、刺激的でエネルギッシュな地球外サウンドが収録されていて、それぞれがリスナーの想像をはるかに超えた冒険的へと誘い、ポジティブなエナジーと希望を増幅します。”Get A Wriggle On” という地球に迫りつつある気候危機への早急な対策を呼びかける陽気なエレクトロ・プログを筆頭として、サイドAには銀河系と精神世界の両者における美徳に対するグリッチ賛歌や、最も回復力のある生き物のひとつであるクマムシに対するトリッピーなトリビュートまで収められています。
一方、心を解き放つサイドBで彼らは、宇宙的で蕩けるようなメロディーの叙事詩を集めています。”Ra” のコズミックなアルペジオから “Asteroid “のスペース・ロックまで、リスナーはサイケデリックな宇宙旅行へと誘われ、”First Encounter”、地球へのラブレターにたどり着きます。
「人類がその歴史において重大な局面にあることは明らかだ。分断と憎しみの力に屈しないように、愛と喜びの音を増幅させることが、今、これまで以上に不可欠なんだよ。手遅れになる前に、人類は団結して種を救わねばならない。まだ希望はある…希望はあるが、その実現のために君たちはこの使命に取り組まなければならない。君たちの未来は君たちの手の中にあるんだから」
そう、私たちは HENGE の音楽で愛と喜び、そして優しさを増幅させて、今そこにある危機に立ち向かわなければなりません。宇宙人だけに任せておくわけにはいかないのです。アグリキュラー星から来たアグリキュラン、Zpor です。どうぞ!!

HENGE “ALPHA TEST 4” : 10/10

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NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【MOON SAFARI : HIMLABACKEN VOL.2】


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH MOON SAFARI !!

“We Actually Never Aimed For The Prog-genre. We Just Want To Create Art, And That Every Note We Write Has a Purpose.”

DISC REVIEW “HIMLABACKEN VOL.2”

「プログレというジャンルを目指したことはないよ。私たちはただ芸術を創り出したいだけで、私たちが書く一音一音には目的がある。どの曲もそれ自体がアートなんだ。だからこそ、ある曲は3分の短くエネルギッシュなものでなければならないし、ある曲は壮大で長いものでなければならないんだ。変拍子の方が合うと思う曲もあるけれど、決して複雑さのためだけに使っているわけではないんだよ。変拍子の方がグルーヴ感が出るのであれば、例えば9/8でもいいんだけどね」
かのメタルの帝王 Ozzy Osbnurne が最近、”私はメタルをやっているつもりはない。昔はすべてがロックと呼ばれていたし、私もその中にいると思う” と発言して物議を醸しましたが、スカンジナビアの良心 MOON SAFARI もきっと同じ哲学の下にいます。
複雑怪奇な “プログレ” と呼ぶには甘すぎて、ビーチ・ボーイズ由来のポップスと呼ぶには知的すぎる。そんな定まらぬジャンルは彼らにとって足枷であり、魅力でもありました。そして今回、10年ぶりにリリースした “Himlabacken Vol.2” で、彼らは周りの目には気もくれず、ただ自らの創造性とアートにしたがってさらにその世界を広げました。
「歌詞の多くは、現在の世界と、それが歩んできた間違った道についてだから。私たちの子供たちもその間違った歩みの世界にいるわけだよ。だからこそ、私たちは人間の愚かさについて歌い、世の中には悪いこともたくさんあることも描く。だけど、一番大切なのは、未来の世界にとって何が良い面なのかを知ってもらうことだと歌っているんだ。今の子供たちがこの世界の良さを信じ続ければ、いつか世界を良い方向に変えることができるかもしれないからね」
戦争、分断、パンデミック。前作をリリースした10年前とは変わり果てた世界で、それでも MOON SAFARI は優しさと寛容さの中に生きています。だからこそ、現代における人類の愚行を子どもたちに伝えたい、より良い世界を目指してほしいという願いはその音楽に宿りました。
もちろん、FLOWER KINGS を彷彿とさせるシンフォニー、表現力豊かなムーグとクワイアのオペラ、青く美しきコーラス・ワークスに洒落た変拍子は今でもここにありますが、自らの子供時代を通して現代の子どもたちを映し出した “Himlabacken Vol.2” には明らかに、暗くてメタリックな瞬間が存在します。
「私たちはみんな80年代生まれだし、このアルバムはノスタルジアの感覚で書かれているから、この曲は偉大な Eddie Van Halen へのオマージュなんだよ。彼は私の大好きなギタリストの一人でもあるしね」
MESHUGGAH 由来のヘヴィ・ポリリズム、Yngwie も舌を巻くクラシカルな光速リード、DREAM THEATER のメタル・イズム。MOON SAFARI は間違いなく、これまでとは異なる一面を垣間見せながら、スター・ウォーズやスタンド・バイ・ミーが “ジョーカー” へと変異した現代の闇をあらわにしていきます。そう、今みんなが心待ちにしているのは、きっと溢れんばかりの笑顔で夢を紡ぐ新たなエディ・ヴァン・ヘイレンの登場なのです。
「私たちは皆、同じ小さな教会で同じ経験をしてきたんだ。学校の最終日に教会で座っているときの、あの魔法のような感覚。”Epilog” から得られる感覚は、何年も前、小学生の時に私たちが感じたものだけど、今でもとても最近のことのように感じられるよ」
アルバムは、スウェーデン語で歌われる天上の讃美歌で幕を閉じます。昔は良かったなどと口にしようものなら即座に老害認定される世界で、MOON SAFARI はロマンチックなノスタルジーを隠そうとはしません。いえ、むしろ前面に押し出していきます。
それはきっと、自転車を手に入れた、ギターを手にした、ゲーム機をクリスマスに買ってもらった、CD をお小遣いで買いに行った…あの時の胸の鼓動と全能感を今の子供たちに分けてあげたいから。重要なのは、どこまでも行けるという無限の可能性を信じること。ネットで即座に手に入るものだけが、便利で評価の高いものだけが宝物ではないことを、彼らはきっと世界に思い出させたいのでしょう。
今回弊誌では、MOON SAFARI にインタビューを行うことができました。「スーパーマリオ、TMNタートルズ、ロックマン、ソニック、トランスフォーマー、スタージンガー、ポケモン、ゲーム&ウォッチ、任天堂、セガ、ソニープレイステーションの世界。子供の頃はずっとトヨタのカムリに乗っていたよ! 」  二度目の登場。どうぞ!!

MOON SAFARI “HIMLABACKEN VOL.2” : 10/10

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NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【MOHINI DEY : MOHINI DEY】


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH MOHINI DEY !!

“People Can Steal Everything But Not Your Art”

DISC REVIEW “MOHINI DEY”

「私はインド人で、カルナティック・ミュージックで多くのコナッコルを学んだわ。それをスラップ・ベースに取り入れ始めたら、みんなとても楽しんでくれたし、それがみんなにとってとても新鮮で新しかったのだと思うわ。私は様々に異なるスタイルやヴァイブをベースで表現するのが好きだから」
ムンバイ出身のかわいいとおいしいを愛する26歳のベーシスト、Mohini Dey は、Forbes Indiaによって “30歳未満で最も成功したミュージシャン” と評されています。9歳で世界への扉をこじ開けた Mohini は、それから18年間、類稀なる才能と努力で Steve Vai, Simon Phillips, Stanley Clarke, Jordan Rudess、Quincy Jones, Mike Stern, Marco Minneman, Gary Willis, Dave Weckl, Tony Macalpine, Stu Hamm, Plini, Guthrie Govan, Chad Wackerman, Chad Smith, Gergo Borlai, Victor Wooten など、本当にそうそうたるアーティストと共演を果たしてきました。日本のファンには、B’z との共演が記憶に新しいところでしょう。
インドは今や、ロックやメタル、プログレッシブにフュージョンの新たな聖地となりつつありますが、確実にその波を牽引したのは Mohini でした。そして音楽の第三世界がまだ眠りについていた当時、彼女がムンバイから世界への特急券を手に入れられたのには確固たる理由があったのです。
「並外れた存在になりたければ、並外れた時間を費やし、才能を磨く必要がある。才能は報酬ではない。報酬とは、才能を磨くために懸命に努力した結果、実りを得ることだから。人は何でも盗めるけど、あなたの芸術までは盗めないの」
アルバムには “Introverted Soul” “内向的な魂” という、Mohini が10年間にわたって温め続けた楽曲が収録されています。友達と遊ぶことも許されず、父の夢を背負いひたすらベースだけに打ち込んだ学生時代。そもそもがとても恥ずかしがり屋で、内向的だった彼女はしかし、音楽で抜きん出ることによってその世界を広げ、今では率直で社交的で経験が大好きな人として成長を遂げました。
才能は誰にでも与えられているが、磨かなければ意味がない。そんな父の教えと、彼女自身の弛まぬ努力が、いつしか彼女の世界を広げるだけでなく、インドの音楽シーン全体をも拡大する大きなうねりとなっていったのです。
「私のライブが終わると、たくさんの子供たちや若い女性ミュージシャンが私のところにやってきて、”Mohini は私のアイドルよ。あなたは私のインスピレーションの源で、私がベースを弾けるようになったのもあなたのおかげ” って伝えてくれるのよ。世界は変わりつつある。今の私の目標は、インドからもっと多くの女性奏者を輩出することなの」
同時に、性別や宗教、人種の壁に対する “反抗心” も Mohini の原動力となりました。インドを含む世界の多くの地域では、白い肌は依然として最も望ましいまたは美しいものとして祝われています。特にインドでは、女性は今でも肌の色について多くの差別を受けているのです。だからこそ、音楽を通して世界を旅した彼女は、あらゆる人種、宗教、文化の人々に会い、すべての文化の美しさを目にし、さまざなま壁を取り払いたいと願うようになりました。”Coloured Goddess” はそうした差別に苦しむ美の女神たちすべてに捧げた楽曲。
一方で、”Emotion” は Mohini 自身が受けてきた、女性であることに対する過小評価への反発です。”女性である私がどんな男性よりも上手にベースを弾くことが可能であることを世界に示したかった” と語る彼女は、幼い頃から、女性はベースを極めるのに力が足りない、強さがないという批判を浴び続けていたのです。
世界で羽ばたいた彼女は今や、そうした姿の見えない “批判者” たちに感謝の “感情“ さえ持っています。そうした批判がなければ、これほど練習することはなかっただろうと。怒りと感謝の入り混じった感情の噴火はすさまじく、ベースを弾き狂う中で彼女は後進たちに、語るよりも行動で示せとメッセージを放ちました。
「18年半の仕事を通じて、私は信じられないほど才能のある伝説的なミュージシャンに会ってきた。彼らと仕事をするとき、実は私は彼らに自分のアルバムに参加してもらうことを念頭に置いていたのよ。それぞれが自分の経験、声、旅を私の曲にもたらしてくれたの。だから、そうね!私は自分の多様な選択を非常に意識していて、各曲ごとに慎重に各ミュージシャンを選んでいったの」
そうした背景を湛え、彼女自身の名を冠したデビュー・フル “Mohini Dey”。この作品で Mohini は、まるで人種や性別、文化や宗教の壁を壊すかのごとく、世界のあらゆる場所に散らばるトップ・アーティストを集めて、前代未聞のカラフルな音の融合を生み出しました。Simon Phillips、Guthrie Govan、Marco Minneman、Steve Vai, Jordan Rudess, Gergo Borlai、Bumblefoot、Scott Kinsey、Narada Michael Walden、Gino Banks、Mark Hartsuch、Mike Gotthard…すべての名手たちは団結し、Mohini の音楽を通して愛と物語を表現していきました。
ここには、かつて WEATHER REPORT や MAHAVISHNU, Chick Corea が培った名人芸とエモーションの超一流二刀流がたしかに存在しています。ただし、彼女の夢は一番になることではなく、自分自身であり続けること。新たな世代を育てること。寛容と反発、そしてムンバイの匂いをあまりに濃くまとった “Mohini Dey” は彼女の決意を体現する完璧な意思表明でしょう。
今回弊誌では、Mohini Dey にインタビューを行うことができました。「B’z と活動した後、私は日本で多くの名声を得て、日本のファンから私の音楽性、ミュージシャン・シップをたくさん愛してもらえるようになった。それに、B’z のおかげでヘヴィなロック・ミュージックも大好きになったのよ」肉への愛を綴った “Meat Eater” や、カリフォルニアのダブルチーズバーガーと恋に落ちる “In-N-Out” など彼女の真摯な食欲もパワーの源だそう。どうぞ!!

MOHINI DEY “MOHINI DEY” : 10/10

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NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【ROBBY VALENTINE : EMBRACE THE UNKNOWN】 “MAGIC INFINITY” 30TH ANNIVERSARY


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH ROBBY VALENTINE !!

“What Will It Take To Make The Younger Generation Understand That Life Is Not About Views And Likes. That The Only Way For Fulfilment, Love And Reality Is That You Follow Your Own Path, And Do The Things Your Deepest-self Wants You To Do And Go For.”

DISC REVIEW “EMBRACE THE UNKNOWN”

「僕にとっての成功とは、商業的な成功や売り上げで測られるものではなく、もっと芸術的なもの。若い世代に、人生は再生回数や “いいね!” の数ではないことを理解させるには何が必要だろうか。充実感、愛、そして現実を手に入れる唯一の方法は、自分自身の道を歩み、心の奥底にある自分の望みを実現することなんだ。つまり、自己実現だね。だけど今は、携帯電話やソーシャルメディア、スマートデバイスが普及し、自分の内なる声を聞くことはほとんど不可能になってしまっているんだ」
Robby Valentine。オランダの貴公子、旋律の魔術師の二つ名を持つ眉目秀麗の美男子は、しかしその端麗なルックスからは想像もつかないほどの芯の強さと回復力を兼ね備えています。思えば、今年30周年を迎えたプログ・ハードの傑作 “The Magic Infinity” は、あと数年早ければ彼をロックスターの座に押し上げたはずですし、そのゴージャスな出立ちも時代が時代ならば世界中に信者を増やしたに違いありません。しかし、世はスマホもネットもないグランジが席巻した90年代初頭。Robby の音楽や容姿、言葉は、世界中からダサい、クサい、時代遅れだと切って捨てられてしまったのです。真の音楽とは、タイムレスで、内なる自己実現の賜物であるにもかかわらず。
「日本は僕にとってオアシスだった。長髪、化粧、その他もろもろのせいで、オランダでは信じられないほど苦労した。でも、日本のバンドと比べると、まったく着飾っていないほうだったよ。X Japan のようなバンドのルックスは大好きだった」
そんな苦境にあって、日本だけは Robby Valentine を抱きしめました。”No Turning Back” のドラマに熱狂し、”The Magic Infinity” の幻想美に唸り、”Over and Over Again” の旋律に涙する。ただ、天才的なメロディ・メイカーであるだけでなく、彼は卓越したマルチ・プレイヤーで、挑戦的な作曲者で、日本が発掘した QUEEN の崇拝者でもありました。そして幸運なことに、世界のトレンドや他人の趣向にそれほど左右されなかった当時の日本には、Robby を受け止める土壌がありました。
まだ、日本が “いいね!” に支配されていなかった時代。そうして、もしかすると消えていたかもしれない才能は、遠く離れた島国との蜜月によって力強く生き残りました。Robby は持ち前の諦めない芯の強さと、メタルの回復力、反発力によって自らの “成功” を勝ち取ったのです。
「僕の視覚は今はもう2%くらいしかないんだ。片目でぼんやりと見える程度だね。この視覚的なハンディキャップによって、僕はより内面的な世界に入ることを余儀なくされている。技術的には多くのものを失ったよ。でもね、そのおかげで演奏に深みが出てきたんだ」
数奇な運命によって多くの苦境や壁にぶち当たる天才が、近年襲われたのが目の病です。コロナ禍で診察ができず、ほとんど失明に近い状態に陥ったプリンスは、しかし今回も諦めてはいません。神がかったテクニックを失い、レコーディングに以前の5倍の時間を要するようになった今でも、Robby は音楽を愛していて、ライブにワクワクして、演奏に深みが出たとまで言い切ります。”Embrace The Unknown” “未知を抱きしめよう”。新作のタイトルは、Robby とメタルのそうしたレジリエンスを如実に反映しています。そして、苦境を力に変える Robby の “魔法” は、かつて日本が彼を “抱きしめた” のと同じように、未知の “暗闇” をも抱きしめ、光と色彩に変えたのです。
「音楽と芸術一般は常に逃避場所で救いであるべきだよ。ただ、僕がやっているのは、音楽において自分の最も内側にある感情に従うことだけだ。聴く価値のある音楽は、精神ではなく心から来るものだけだと、僕は感じているからね」
そうして Robby は、この寛容で、優しく、多彩で、色彩豊かなアルバムにおいて、未知なる他者、未知なる文化をも抱きしめようと呼びかけます。もちろんここには、QUEEN, BEATLES, ELO, THE BABYS, スウィング、クラシックにブロードウェイ、そして渦を巻く鍵盤と壮大なコーラスが認められています。ただし、それはあくまで旅の道標。貴公子が触れればそれらはすべて、Robby の色に染まります。私たちは、このシアトリカルでドラマティックなヴァレンタイン劇場を待っていました。同時に、視力を失ってもよい夫でいられるだろうか、よい父でいられるだろうか、よい音楽家でいられるだろうか…そうした不安をすべて曝け出した “伝記的” アルバムで、彼は真の感情を見つけ、苦悩し、表現し、それでも寛容な未来に光を見出すのです。
今回弊誌では、Robby Valentine にインタビューを行うことができました。「この25年間、ラジオから流れてくるレコードの中で、音声補正やオートチューンによって台無しにされていないものはほとんどない。僕らはみんな、クソロボットたちの音楽を聴いているだけなんだよ。だから、僕はそこから手を引いて、自分のやるべきことをやっているんだ」 ヘヴィ・ロックとプログ、そしてポップスの境界線を破壊した天才の新たなる傑作。どうぞ!!

ROBBY VALENTINE “EMBRACE THE UNKNOWN” : 10/10

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COVER STORY + NEW DISC REVIEW 【SOPHIE LLOYD : IMPOSTER SYNDROME】


COVER STORY : SOPHIE LLOYD “IMPOSTER SYNDROME”

“It Was The Classic Sob Story In School – I Was a Bit Of An Outcast And Didn’t Make Friends. The Guitar Was My Release And My Escape.”

IMPOSTER SYNDROME

Sophie Lloyd のギター人生は、すべてがうまくいっていました。27歳のイギリス人ギタリストは、Machine Gun Kelly のバンドの一員として、アメリカとヨーロッパでのビッグ・ツアーを終えたばかり。2022年春にケリーのメインストリーム・セルアウト・ツアーに参加するまでは、YouTube や Instagram で多くのフォロワーを獲得していたにもかかわらず、イギリス国内ではクラブやパブでのギグにしか出演していなかった Lloyd にとって、そこはまさに夢の舞台。
今では、マディソン・スクエア・ガーデン、ウェンブリー・アリーナ、スタジアムなど大舞台で演奏し、”大成功” を収めています。まさに、ギターを抱えたシンデレラ。
すべてが少しおかしくなったのは今年の2月でした。Lloyd の名前は突如としてメディアの見出しを飾りましたが、その理由は彼女の天才的なシュレッド・スキルとはまったくの無関係。事の発端は、Kelly の婚約者で女優のミーガン・フォックスがネット上で破局の噂を流したことで、あるファンがフォックスのポストに “彼はおそらくソフィーと一緒になった” と書き込んだこと。それがすべてのはじまりでした。
瞬く間に、Lloyd はクリックバイトの餌食となり、タブロイド・サイトは彼女に “Kelly のもう一人の女” の烙印を押しました。この憶測は Lloyd のマネージメントによってすぐに打ち消され、フォックスもギタリストを擁護し、浮気スキャンダルを否定。インスタグラムに “Sophie、あなたはとても才能がある。ハリウッドへようこそ” と投稿したのです。
その後、騒動は沈静化し、今では彼女もその事件を笑い話にしています。
「あの騒動の渦中にいたことは、私にとってクレイジーな時間だった。明らかに、私たちは真実を知っていて、それは全くのでたらめだったけど、それでも嘘が急速に広まり、皆がその流れに飛び乗るのを見るのは、ワイルドなことだったわ」

それは、たまたま女性であったミュージシャンが直面する、厳しくも予測可能な汚名でした。
「私が特に腹が立ったのは、何かドラマがあるとすぐに指が私に向けられたこと。”ああ、あの女性ミュージシャンね。そうなると思ってたよ” ってね。もし私が男でバンドの新人だったら、誰も何も言わなかったでしょう。メディアの毒性にさらされたのはちょっと不運だったわ」
このエピソードに明るい兆しがあるとすれば、自身の SNS アカウントが劇的にフォロワー数を増やしたことでしょう。
「Instagram のフォロワーが2万人増えたの。みんなが私のプレーを褒めてくれたわ。だからまあ、それはプラスに働いたわね」
Lloyd の YouTube チャンネル登録者数は100万を超え、Instagram のフォロワー数もそれに肉薄しています。その場所に、お気に入りの曲(GREEN DAY から IRON MAIDEN まで)のギター・カバーを投稿し始めて以来、彼女は数千万回もの再生回数を叩き出し、メロディックなレガート・ソロからターボ・チャージされたタッピングまで、その息をのむようなシュレッドでアックス・ファンを魅了してきました。
その成功を受けて、Lloyd は最近、クラシック・ロックの楽曲を “シュレッド” ビデオ・シリーズに再構築し始めました。PINK FLOYD の “Comfortably Numb” のオペラティックな演奏は、思慮深いブルージーなリックと超音速のシュレッド・ロケットの対比が素晴らしく、すでに500万回近く再生されています。そこで彼女はパートナーの Christopher Painter と共にビデオを制作しています。
「私がギターとベースを担当し、それからすべてのレイヤーを聴くの。作曲の勉強になるわ。演奏に関しては、ギタリストを研究して、彼らがやっていることの内側に入り込もうとする。例えば “Comfortably Numb” の時は、David Gilmour のスケールとトーンを理解しようとした。あれはクールだったね。シュレッドしなくても、いかにパワフルなサウンドを出せるかを学んだよ。”天国への階段” のビデオも同じ。ビブラートとフレージングがすべてなんだ」

“オンライン・クリエイター” として成功した Lloyd が、アリーナ・ロックの第一人者へと転身するまでの見事な軌跡は、すべて周到に練られた計画の結果だと思われるかもしれませんが、彼女はすぐにその考えを否定します。
「なんの計画もなかったわ!(笑) 本当のところ、私はオンライン・コンテンツ・クリエーターになろうと思ったことはないの。昔、YouTubeに参加したのは、私が育ったところには本物の音楽シーンがなかったから。だからもっと型破りな道を歩まなければならなかった。ツアー・ミュージシャンになるつもりもなかったし、実際、家にいて家族と一緒にいるのが好きなのよね。でも、MGK に誘われて、結局やってみたら、ツアーも本当に楽しいことがわかった。私は音楽を作ることが大好きだし、どんなエキサイティングなことがやってきても受け入れるよ」
これまで Lloyd がリリースしたオリジナル曲はインストゥルメンタルばかりで、特に2018年に発表したデビューEP “Delusions” が有名でしたが、最近では、ゲスト・ヴォーカリストが多数参加するフル・アルバム “Imposter Syndrome” を完成させ、よりメジャーな世界に挑戦するつもりです。
「このアルバムは、15歳の自分にオマージュを捧げるものだといつも言っていたわ。このアルバムは、あの子 (15歳の Sophie) のために書いたアルバムなの。このアルバムに参加している素晴らしいシンガーたちと一緒に仕事ができて本当に幸運だわ。
私が曲を書いて、それを送って、シンガーたちから返事が来る。彼らはみんな、”ああ、これは本当に気に入った!” いう感じだった。私が想像していたよりも、すべてがうまくいったよ」

Lloyd がギターを始めたのは、しかし以外な理由でした。
「恥ずかしい話なんだけど。実は “スポンジ・ボブ” を観てギターを始めたの。いい番組だよね。映画を観たんだけど、TWISTED SISTER の “I Wanna Rock” をボブがやるんだけど、ビッグバンドを従えていて、とてもすごいと思った。”うわーこれやりたい!”って思ったんだ」
実際、スポンジ・ボブは時にかなりロックしています。あるエピソードでは、彼がシンガーで、パトリックがギターを弾いて、彼らはスタジアムをロックして、ライトとレーザーを使って……
「(笑)!それが始まりだった。そして、LED ZEPPELIN、Joe Bonamassa, Rory Gallagher のような素晴らしいブルース・ギタリストたち。父はギターを弾かなかったけど、父のおかげで私は音楽に囲まれていた。10歳くらいのときにクラシック・ギターのレッスンを少し受けたけど、”いやだ、コレはちがう!” って感じだった。
それから、ヤマハのパシフィカというエレキギターを手に入れた。本当に夢中になったね。よくある話だけど、学校では典型的な陰キャで友達も作れなかったから、ギターは私の解放であり、逃避だった。ロックを演奏することで、とても安らぎを得たんだよ。学校から帰ってきて、5時間も6時間も弾いていたね」
まさに、メタルのレジリエンス、反発力と回復力。そして Lloyd もまた、グリップマスター教の信者でした。
「子供の頃、グリップマスターのハンドエクササイザーを買って、スクールバスの中でニギニギしている自分がカッコイイと思っていたの!でも、演奏には何の変化もなかったと思う!ギターを手に取り、指の下で弦を感じ、タコを作ることに代わるものはないわ。
また、各指の強度を高めることも本当に重要ね。多くのプレーヤーは、第1指と中指の間でハンマーを打ち込んだり引き抜いたりすることには自信があっても、中指と小指で同じことをすることには自信がないから。
中指や薬指から小指に向かう速いトリルを練習するのはとてもいいことだよ。レガート・ランではいつも小指を使うから、私にとってはとても貴重なんだ。3本の指しか使わない奏者もいるけど、小指を軽視することで、可能性の大きな部分を逃しているように感じるね」

Lloyd には、ギターの先生から学んだ練習の極意があります。
「私の昔の先生は、練習は三角形のようなものだと言っていたわ。そして、学ぶときはいつでも、そのうちの2つに集中し、もう1つは無視する必要があるとね。例えば、メトロノームを使って練習している場合、おそらく最初はゆっくり始めることになるだろう。そういう状況では、きれいさと正確さのためにスピードを犠牲にすることになる。
この段階でミュート・テクニックを身につけることは常に重要で、フレットを弾く手の指で使っていない弦をカバーするのか、ピッキング・ハンドを使うのか、あるいはその両方なのか!一度に数本の弦だけをカバーするために手のひらの一部を持ち上げたり、ピッキング・ハンドの手のひらの側面を使って他の弦をミュートしたりすることをいつも気にするべきよ。
それができたら、スピードを上げて正確さを保つ練習を始めることができる。最後に、三角形を完成させるために、すべてを足し合わせる!」
とはいえ、学び方は人それぞれだと Lloyd は言います。
「学び方は人それぞれだと思うから、自分ならどう学ぶのがよいかを知ることが大切。誰かとジャムることで自信がつくから、ギターの先生との実践的な経験は本当に貴重だと思う。私はYouTube でたくさんのことをやっていたから、演奏に対する不安が少しあったんだ。すべてが孤立していたからね。でも、YouTube は便利でいいよね。ベッドで、パジャマで、無心になって練習できる。だから、正直なところ、一番いいのは両方の組み合わせだと思うわ。
ただ、私は、耳で学ぶことが常に最良の方法であるとアドバイスしたいね。というのも、相手のやっていることをそれでより理解できるようになるから。その方が耳も鍛えられるし、物事を素早く習得するコツもつかめる。
時間はかかるけど、使えるアプリはたくさんある。私は大学時代、毎日30分電車に乗っていたから、そういう時間を使っていたのよ」

当時はどんな曲がお気に入りだったのでしょうか?
「最初の曲は “Wild Thing” だった。Mike Hurst よ。彼は Dusty Springfield のギタリストだった。私にとって第二のおじいちゃんみたいなものなのよ。彼から多くのことを学んだ。そうしてギターのフィーリングは自然に身についたけど、曲作りも大好きだったわ。
コードにハマると、私の中の作曲が解き放たれた。IRON MAIDEN, METALLICA, AVENGED SEVENFOLD と一緒に演奏したわ。すぐに全部できるようになったよ。最初に覚えたフル・ソロは “天国への階段” だった。
父が、もし私がそれを弾けるようになったら、 PRS の Mark Tremonti のシグネチャー・ギターを買ってくれるって言ったんだ。私は必死に練習して、父はその約束を果たしたわ。それがFacebookにアップした最初の動画のひとつだよ。14歳かそこらだったかな。ソロに挑戦するのが楽しかった。パターンやシェイプにこだわることはなかった。ただ、耳が良かっただけなんだ」
そのころから、ギターを職業にしようと考えていたんでしょうか?
「いや。遠い夢のように感じていたよ。周りにギターを弾く人はいなかったし、音楽業界の知り合いもいなかった。現実の世界では、孤立感を感じていたね。学校で “大学で音楽を学びたい” と言ったら、”ダメだ” と言われた。私は奨学金をもらって、大学で法医学を学ぶことになっていたの。少しオタクだったから。でも、大学進学の1週間前に、”どうしても音楽をやってみたい” と言ったんだ。幸運なことに両親も応援してくれて、ロンドンの音楽大学に合格したのよ」

この時点で、どんなギタリストに夢中になっていたのでしょう?
「Joe Satriani ね。”Surfing With The Alien” は、最初から最後まで学ぶべきレコードだった。Angel Vivaldi も好きだったわね。それから、Andy James, Sinister Gates, そしてもちろん Slash も大好きだった。彼らのことを深く掘り下げたよ。大学では、Eddie Van Halen に出会って、彼に夢中になったのよ!」
そうして Lloyd は英国およびアイルランド現代音楽研究所を卒業しました。
「音楽大学については賛否両論あるわね。最終的には、出会った人たちのおかげで、行って正解だったと思うけど、全体的には、彼らは私にセッション・ギタリストになることを強要し、他の人たちのカーボン・コピーにしようとした。1年後、私は自分が本当に好きな曲を弾いていないことに気づいたの。
あそこでジプシー・ジャズなども学んだけど、私の心はそこになかった。大学から帰ってきて、好きだったエモの曲を覚えたんだけど、そのとき、”自分の創造性を、自分が楽しめるものに成形する必要がある” と思ったんだ。それで、最初のEP “Delusions” を書き始めたんだ」
YouTube の撮影に慣れるのも簡単ではありません。
「だいぶかかったわ。カメラを向けられることに100パーセント慣れたと感じることなんてないでしょ? (笑) でも、ビデオを振り返って進歩を見るのはいいことだよ。あのころは、YouTube でお金を稼げるなんて知らなかった。最初に作った動画のひとつは、AVENGED SEVENFOLD の “Nightmare” だったね。
去年、バンドのベーシスト、ジョニー・クライストと一緒に見たんだけど、本当にナイトメアよ。大笑いしたよ (笑)。そうやって、ビデオの中にはちょっとぞっとするようなものもあるけど、それでもいいんだ。古いものを削除するつもりはない。参考になるものがあるのは大事なことだと思うし」

自分のプレイを撮影してネットにアップすることは、敷居が高いと思う人も多いでしょう。
「一番難しいのは、最初のビデオを投稿することだと思う。自分をさらけ出すんだから、怖いしとても難しい。でもね、そんなことは忘れて、とにかくやってみること!
また、機材を揃えることを心配する必要もないわ。多くの人は機材を理由に後回しにして、”新しいカメラを手に入れたら撮影しよう” とか思ってしまう。永遠に待つことになるから待ってはいけない!私の最初のビデオはジャガイモで撮ったみたいだし、音質も最悪だった。だから、できる限りやって、楽しんで。
とにかく、自分独自のものを開発するの。市場の空白を探して、それを埋めようとするんだ。Tim Henson は、両手を使うという新しいプレー方法を開発した。あるいは、ミセス・スミスのように、おばあさんの格好をしたギタリストのようなバカげたものもある。でも、とにかく何かをやればバイラルな瞬間が生まれるかもしれないし、他の誰よりも目立つかもしれない」
オンラインで成功するためには、プレイヤーとしてだけでなく、ブランドとして考えることが重要だと Lloyd は言います。
「それはとても重要なこと。プレーだけでなく、提供するもの全体が重要なんだ。だからこそ、私はシュレッド・バージョンを開発したの。市場に隙間があると思ったから、そこに飛び込んで埋めたんだ。くだらないことだけど、インスタグラムで色を揃えることは、アルゴリズムが君を押し上げることになる。
YouTubeのタグを間違えないようにしたり、タイトルの書き方を間違えないようにしたり。バンド名は常に最初に書くべきよ。それが一番検索されやすいから。
ある意味、自分自身をブランドや商品として考えることで、オーディエンスが何を見たいのか、何に興味があるのかを知ることができる。観客が好むようなことをするために、観客のことを知らなければならない。うまくいくこともあれば、失敗することもあるわ」

少し前に、Lloyd はアウトテイクのビデオを投稿しました。何度も何度も演奏して、なかなかうまくいかず、気が狂いそうになっている人のに、Lloyd がどれだけの努力を積んでいたのか伝わったかもしれません。
「とても多いよ!SNS では、最終的なテイク、つまり完璧なテイク、私がいいところで笑っているテイクしか見られない。でも、何度も失敗している部分がたくさんある。4分の作品を撮るために3時間くらい撮影しているんだから。だから、あのビデオを作ったんだ。インスタでプレイヤーたちを見ると、”あぁ、この人たちはすごいな。ああ、彼らは私よりずっとうまいんだ” と思って、自責の念に駆られてしまう。だから、そういう面も見せることが大事だと思うんだ。
今は、ライブ・ストリーミングで、私がシュレッドを習得して練習していく過程をみんなに見てもらえる。失敗したときとか、そういうのも全部見られるよ。ソーシャル・メディアは本当にすべてが “フォトショップ加工” されていると思うから。ぜんぶ完璧だから、失敗も見てもらえるのはいいことだと思うんだ」
ギターや機材についても、Lloyd は YouTube で学びました。
「YouTubeでたくさんのビデオを見たよ。長い間 PRS が好きだったんだけど、VOLBEAT の Rob Caggiano が Kisel を紹介してくれたんだ。とてもカスタマイズしやすくて、気に入っているよ。ペダルやアンプも同じような感じだった。
スタジオで仕事をすることで、自分の好きなサウンドが見えてきたんだ。自分のビデオを見ているうちに、ギター・ソフトウェアにのめり込んでいったわ。今は、Nolly を使っている。ネットでいろいろ調べたり、人と話したりしたのがきっかけなんだ」

MGK との共演も、そもそもはネットが始まりでした。
「実はドラマーの父親が YouTube で私を見つけてくれたんだ。それから Kelly が連絡をくれて、FaceTime で話したの。すべてがうまくいった。ライブのビデオを送ったんだよ。ツアーに出る数週間前のことで、彼らはすぐに決断しなければならなかった。オーディションを受けたりする必要はなかったんだ。
最初の数日は Kelly がいなかったから、少しプレッシャーがあった。とはいえ、初日はかなりストレスがたまった。偽者症候群から抜け出さなければならなかったからね。偽者症候群というのは…今はそこから抜け出せた気がする。私はここにいる理由がある。私には十分な力があるって信じられるから」
この “偽者症候群 “という言葉は、Lloyd のアルバム・タイトルにもなりました。
「”偽者症候群” は音楽に限らず、どんな分野でも多くの人が経験する現象だけど、基本的に自分が偽者だと感じるんだ。自分が今いる場所にふさわしくないし、いつ何時、人に正体を暴かれるかわからないってね」
つまり、Lloydはこれまで、スクリーンの向こうで生きざるを得なかったとも言えます。
「ずっとそれで苦労してきた。パフォーマンス不安や偽者症候群がひどくてね。だから Twitch を始めたんだ。私の人生はずっと YouTube の中で、スクリーンの向こうで、編集できる場所で生きてきたからね。編集できないライブ・ストリーミングに挑戦しておきたかった。
ライブで演奏するとなると、テイクが1回しかないから全然違うし、それが怖いんだ。いつもは40テイクもある。だから、ライブではもっといろいろなことをやって、不完全な面を見せるようにしているんだ」

MGK は Lloyd に音楽的な自由を与えています。
「彼は最初から超オープンだった。彼はライブでの経験や、何かを変えるというアイディアが大好きだから。自分のバンドの才能を披露するのもね。もう一人のギタリスト、Justin Lyons は、私が今まで見た中で最も素晴らしいギタリストの一人だよ!」
小さな観衆の前で演奏していたのが、突然スタジアムやアリーナで演奏するようになるのも恐ろしいことでしょう。
「それは究極の挑戦だったし、自分の悪魔と戦いながら、それに取り組まなければならなかったわ。最初のギグの前に、すごく練習したよ。ナーバスになることを想定していたんだ。でも、ステージに立った瞬間、すべてが溶けて、そこにいることが運命だったように感じたわ。
すべての人の顔やサインを見た。自分でも驚いたよ。みんながクレイジーになるのを見るのが好きなんだ。楽しかった!」
夢を叶えるといえば、大ファンだった TRIVIUM の Matt Heafy も Lloyd のアルバムに参加しました。
「彼はとてもいい人よ!正直、信じられない!このアルバムに参加している人たちも、みんなとてもいい人たちばかり。ああ、Matt はクレイジーだったよ。アルバム “Delusions” のレコーディング初日に撮った、自作のトリヴィアムTシャツを着た写真があるんだ。彼と一緒に仕事ができるなんて、なんだか怖いような感じだよ。フロリダに行って、彼と一緒にビデオを撮影したのも楽しかった。彼はすぐにビジョンを理解してくれたわ。
それに、この曲は Twitch でレコーディングしたんだ。何が好きか、何が嫌いか、歌詞が良いか悪いか、ファンからのフィードバックがすぐに得られたから。”あの叫び声はやり直したほうがいい?” というようなライブのフィードバックがあったのはクールだった。そうそう、あれは本当に楽しいやり方だったよ」
Chris Robertson との “Let It Hurt” はリフが実に強力です。
「リフを書くのは大好きなんだ。たくさんの音楽を聴いて、いろいろといじったり、コードを逆にしたり、コードを変えてみたり。曲を最初から最後まで作り上げるのが本当に楽しいんだ」

一人の専属シンガーとバンドを作ることも選択肢の一つです。
「それを考えているんだけどね。どうやってツアーをするか。いくつかアイデアがあるんだ。専属のボーカリストを雇うかどうかはわからないけど、自分に合っていて、インスピレーションを与えてくれるボーカリストを見つけることが大切だと思う。大きなスクリーンを用意して、ボーカリストに演奏を録音してもらって投影するようなこともやってみるかもしれない。バイオリニストのリンゼイ・スターリングがそうしている。視覚的にもかなり素晴らしいよ」
Kisel のシグネチャー・モデルも重要な彼女の相棒です。
「シュレッド・ギターにしたかったんだ。このギターで、すべてが思い通りになったよ。Kisel の “Aries” というギター・シェイプが大好きで、それに似たものが欲しいと思っていたんだ。
このギターは超軽量で、ステージでスイングすることもできる。カラーはパープルだけど、自分で好きな色を選べるよ。
それに女の子だから、おっぱいの位置もちょっと考えないとね。おっぱいの下にうまく収まらないギターもあるからね (笑)」
Lloyd はネット上の存在からメジャー・バンドの一員になることで、革命の一端を担っているように感じているのでしょうか?
「そうだと思うけど、わからない。数歩飛ばしちゃった感じかな。私にとっては、それは祝福でもあり呪いでもある。もし私が音楽シーンやバンドがたくさんある地域で育っていたら、それを利用していただろうけどね。こんなに高いレベルでツアーに参加できるようになったのは興味深いわ。いつもみんなは “君は苦労してない” って言うけれど、私は違う形で苦労もしてきたのよ。
でも、私の旅がすべて記録されていることはクールだと思う。特に TikTok とかで。以前はいつも心配していたんだ。音楽業界に知り合いはいなかったし。自分の居場所もなかった。インターネットがなかったら、どうなっていたかわからないよね。
ソーシャルメディアは、すべての扉を開き、誰にでも閲覧できることは驚くべきことだと思う。同時に、物事は飽和状態になり、明らかにその弊害もある。しかし、全体的に見れば、SNS は音楽にとって新しい方向性であり、私たちは皆、それに適応する必要があると思う。素晴らしい音楽がたくさんあるし、みんな信じられないようなことをやっている。本当にエキサイティングだと思うわ!」


参考文献: GUITAR WORLD:Sophie Lloyd went from filming YouTube covers to touring arenas with Machine Gun Kelly – she recounts her meteoric rise

MUSIC RADER:Sophie Lloyd shares her advice for future guitar YouTubers:

SPIN:Artist to Watch: Guitarist Sophie Lloyd

NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【MATTEO MANCUSO : THE JOURNEY】


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH MATTEO MANCUSO !!

“A Good Advice Would Be To Shut Down The Phone, Laptop And Everything Around You, And Just Explore The Guitar.”

DISC REVIEW “THE JOURNEY”

「僕は指弾きを選んだというわけじゃなくてね。というのも、エレキギターを始めたばかりの頃は、ピックを使うということを知らなかったんだ!その後、ピックを “発見” したんだけど、フィンガー奏法に慣れすぎていたし、僕は(今もそうだけど)信じられないほど怠け者だったから、ピックの使い方を学ばなかったんだ。メリットとデメリットはあると思うけど、どちらが良いということはないとも思う。何をプレイしたいかによるんじゃないかな」
John Petrucci, Joe Satriani, Steve Vai, Tom Morello, Frank Gambale など、ギター・シュレッドの世界は実は、イタリア系のプレイヤーを中心に回ってきました。そしてここにまた、イタリアの赤、光速の、フェラーリ・レッドの血を引くシュレッダーが登場しました。驚くべきことに、Steve Vai, Al Di Meora, Tosin Abasi といったモンスター級のギタリストがこぞって “ギターの未来” と称するこの26歳のシチリア人 Matteo Mancuso は、かの Allan Holdsworth にも例えられる難解かつ超常的フレーズの数々を、指弾きでこなしています。
「僕は自分のことをジャズやロック、どちらかのプレイヤーだとは思っていないんだ。僕はただ、ギターを自分を表現する道具として使っているミュージシャンなんだ!だから、聴いたものすべてをミックスするのが好きなんだよ。その方が自然でのびのびと感じられるからね」
もちろん、Matteo のテクニックは誰もが驚くような、スペクタクルと知性、そして野生が溶け合うギターのイノベーションです。しかし、彼の本当の真価は “良い曲が書ける” ところにあります。ジャズ、フュージョン、ロックにメタルを咀嚼した Matteo の音世界を巡る旅路 “The Journey” は、ウェス・モンゴメリーから WEATHER REPORT、ジミヘン、さらに TOOL や Plini に至るまで、実に色彩豊かで奔放な、万華鏡の景色を届けてくれます。そこに Matteo のマジック・タッチがあれば、誰が言葉を必要とするでしょうか?
実際 Matteo は、インストは歌物よりも絶対的に数が少ないからこそ、ジャンルを超えて音源を探索し、そして様々な素養を身につけることができたと胸を張ります。そうしていつかは、Eric Johnson の “Cliffs of Dover” や Santana の “Europa” と肩を並べるほどに、雄弁なインスト音楽を創造したいと願うのです。
「パシフィカは、気軽に買えるストラトタイプの中でおそらく最高の入門機なんだ。それに、僕は良いギター・トラックをレコーディングするのにハイエンド・ギターは必要ないと思う!最も重要なことは、良いサウンドを求めるときの演奏の出来栄えだからね!」
加えて、うれしいことにこの新進気鋭のイタリア人は、YAMAHAのパシフィカを愛機として使用しています。もちろん、パシフィカはプロ御用達の “ハイエンド・ギター” ではありません。しかし、だからこそ Matteo はパシフィカを使用しているふしがあります。誰にでも手にすることのできるストラトタイプの王様であるパシフィカで魔法を生み出すことによって、Matteo はギターの敷居を下げ、裾野を広げていきます。
今回弊誌では、Matteo Mancuso にインタビューを行うことができました。「Allan Holdsworth はギターの数少ないイノベーターの一人で、僕はいつも彼をヘンドリックスやヴァン・ヘイレンと同列に並べていたんだ。彼は、ギターが多くの素晴らしい方法で演奏できることを教えてくれたし、彼のハーモニーのアプローチとボキャブラリーは、まさにこの世のものとは思えないものだったよ」 YouTubeで158kのフォロワーを獲得し、ギター・モンスターたちから称賛されたデビュー・アルバム “The Journey”。まさに新しい世界秩序の幕開けでしょう。どうぞ!!

MATTEO MANCUSO “THE JOURNEY” : 10/10

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NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【SOLEO : SOLEO】


COVER STORY : SOLEO “SOLEO”

“Music, Just Like Any Artform, Can Inspire a Person To Act, But It’s Still Up To The Person To Put One Foot In Front Of The Other.”

SOLEO

SOLEO は、ボーカルとギターのアミール・ゴリザデ、ドラムのニック・ゴリアス、ベースのタイナン・エヴァンスによって結成されたモダン・プログ・バンドです。クリーブランドを拠点とするこのトリオは、ゴリザデの両親が1979年のイラン革命時に祖国を逃れ、アクロンに避難した経験にインスパイアされ、セルフタイトルのデビューアルバムを今夏リリースしました。
「アルバムに収録されている “Uncle” という曲は、母の叔父のことを歌っているんだ。彼らは母の兄を捕らえ、母の父を捕らえ、彼らも処刑するつもりだった。二人はなんとか逃れたけどね…

ゴリザデの両親はアクロン大学で出会いました。ゴリザデはそうした自分のルーツを知り、音楽を通して家族の物語を伝えたいと思うようになっていきました。
「年をとるにつれて、イランの文化をより深く理解するようになった。このアルバムに取り組んでいる時、イランの歴史について両親ともっと話すようになったんだ。そして自分でも、もっと調べたんだよ」
ゴリザデは若い頃から音楽に造詣が深く、高校時代には AMBERSEIN というバンドを結成していました。

“I grew up listening to a mix of American and Persian music, and I think that’s where my sound comes from. As I got older, I started exploring music more and now I listen to pretty much everything from all over the world. Actually, one of my friends just got me into Japanese prog music from the 1960s. It’s good! I still don’t know much about it, but it’s something I’m learning more about these days.
It would take me way too long to name all the artists that have inspired me, but I wouldn’t say they influenced my writing because I try not to emulate other artists. I want to create original sounding music with my own style. I think copying another artists is a waste of time. That’s just doing a worse version of something that already exists. I don’t want to do that. I want to enjoy their music, and then create my own. I probably do subconsciously draw from artists I listen to, but I try not to.”


「僕はアメリカ音楽とペルシャ音楽をミックスして聴いて育った。大人になるにつれて、もっと音楽を探求するようになり、今では世界中のあらゆる音楽を聴くようになったよ。実は、友人の一人が1960年代の日本のプログレを聴かせてくれたんだ。いいよね!まだあまり詳しくはないけど、最近もっと勉強しているところなんだ。
僕にインスピレーションを与えてくれたアーティストの名前を全部挙げると長くなりすぎるけど、僕は他のアーティストのマネはしないようにしているから、彼らが僕の作曲に影響を与えたとは言えない。僕は自分のスタイルでオリジナルな音楽を作りたいんだ。他のアーティストのコピーは時間の無駄だと思う。それは、すでに存在するものの悪いバージョンをやっているだけだ。そんなことはしたくない。彼らの音楽を楽しんで、それから自分の音楽を作りたい。無意識のうちに、自分が聴いているアーティストの曲を参考にしているのかもしれないけど、そうしないようにしているんだ」

そうして彼は、中東の伝統的な音に大きくインスパイアされた独特のギター・チューニング・スタイルを確立し、曲作りを始めたのです。
「大学時代に父がイランに行ったことがあるんだ。父が帰ってきて、シタールをプレゼントしてくれたんだ。エレキギターをこんな風にチューニングしたら、どんな音がするんだろうってね。すべては、僕が思いついたギターのチューニングから始まったんだ。僕が弾いたチューニングは中東の響きに聞こえた。自然と、それに惹かれたんだ」
大学院に通うためにカリフォルニアに引っ越した後、ゴリザデはより真剣に音楽を追求するためにオハイオ州北東部に帰りたいという気持ちになりました。そして、AMBERSEIN の元バンド仲間であるタイナン・エヴァンスに、新しいプロジェクトを始めることを相談したのです。
ゴリザデは、ベースのエヴァンスに取り組んでいた中東風の曲を紹介し、2人は後にドラムのニック・ゴリアスを加えて SOLEO を結成しました。
SOLEO のサウンドは、西洋のプログレッシブ・ロックとストーナー・メタルに古典的なペルシャ音楽を融合させたシネマティックなもの。このブレンドが、より大らかで壮大なサウンドを生み出しているのです。アルバムは全体として、PINK FLOYD の “The Wall” や THE WHO の “Tommy” のような古典的な作品を思わせる映画的な感覚を持っていますが、同時に現代的なチャレンジも組み込まれています。
ゴリザデのシタール風ギターのサイケデリアと、メタル的なドラミング、ドロドロしたベースラインが、SOLEO に典型的なプログレッシブ・ロックとは一線を画す渾然一体型サウンドを与えています。
バンドは約8年前から共同で曲を作っていて、デビュー・アルバムはその間に作られたもの。驚くことに、2022年にポスト・ハードコアやメタルコア・バンドの多いレーベル、Tragic Hero Records と契約を果たしました。
「”Manifesto” は、おそらく僕が書いた最初の曲で、”これが何になるか分かっている。これがアルバムのオープニングになるんだ” と思っていたね」
オープニング曲のアイデアは、イラン革命の精神的指導者であったルーホッラー・ホメイニー師が、嘘に基づいた楽観的な未来について国民に向けて演説をするというものでした。
アルバムはそこから、ゴリザデの母親がイランから逃れてきて、アクロンで生活と家庭を築くまでを3つの章で語っています。つまり、84分にも及ぶ “Soleo” は、中東とアメリカの両方を横断する物語をリスナーに届けるというコンセプトに沿っているのです。

アルバムは、2009年の大統領選挙後にイランで起こった政治運動グリーン・ムーブメントについても歌っています。
「現職のマフムード・アフマディネジャドは非常に不人気だったため、(アフマディネジャドを支持する)イランの最高指導者が彼の圧勝で再選されたと主張したとき、ほとんどの人々は選挙結果の妥当性を疑った。
“緑” という色は当初、勝利が有力視されていた対立候補、ミール・ホセイン・ムサビの選挙運動で使われ、それに関連していた。選挙後、緑色は革命を推進する人々の団結の象徴となった。圧政を排除し、市民の繁栄を支援するために献身的なより良いリーダーシップをもたらすもののね。緑色は自然を連想させ、生命と成長を象徴しているからだ。 この曲は特にグリーン・ムーヴメントについて歌っているけど、このムーヴメントが歴史上の他の瞬間と類似していることを認識し、強調したかったんだ」
アルバムの終盤は現実から理想というフィクションへと変化し始め、”Soleo” という曲では、ゴリザデと彼の兄弟がイランに戻り、人々を解放するというファンタジーが描かれています。
「第3幕は、イラン革命が僕の母にどのような影響を与えたか、僕にどのような影響を与えたか、そしてイラン人一般にどのような影響を与えたかについて。明らかに、そんなことは起こらない。それでも、革命が起こり、成功すれば、僕たちの多くは、少なくともイランを訪れるために戻ることができる」
ゴリザデはこれまでに2度イランを訪れたことがあります。赤ん坊のときと、大学時代に父親と訪れたとき。しかし母親は一度も戻っていません。
「母の歴史について話すのは、最初はためらった。というのも、クレイジーに聞こえるだろうけど、向こうの政府には人々を監視する人間がいるんだ。彼女は、僕が作品を公開したことに少し神経質になっているけど、彼女の同意なしに公開したわけじゃない。最終的に彼女は問題ないと言ってくれたよ」
ゴリザデは、自分の家族の歴史について音楽を書くことは、解放的で自由であると同時に、最も困難なことであるといいます。
「多くの人が、移民という同じような経験をしているのに、それを表現する方法がないのだと思う。これが僕の家族だけの物語だというのは短絡的だ。多くの人が故郷を離れ、別の場所で新しい生活を始める。だから、ストーリーはユニークだけど、コンセプトは普遍的なんだ。僕の家族のように物理的に居場所がなかったり、学校で仲間はずれにされたり、自分の居場所がどこにもないと感じたり。それがいくつかの曲の大きなテーマなんだ」

イランでは、ヘヴィ・メタルは禁止された音楽です。

“I don’t know if they consider it “devil’s music” but they do say it’s “against Islam” and therefore it is banned. I disagree with this idea, and I would say most Iranian people do as well. Their current government is anti-western culture, so they ban anything that is western influenced, like rock and metal music. But suppressing music just makes people want to engage with it more, so it’s a silly idea to me. I’ll leave it at that.”


「彼らがそれを “悪魔の音楽” と考えているかどうかは知らないが、”イスラム教に反する” と言っているのはたしかだ。僕はこの考えに同意しないし、ほとんどのイラン人もそうだと思う。イランの現政権は反西洋文化主義なので、ロックやメタルのような西洋の影響を受けた音楽を禁止している。しかし、音楽を抑圧することは、人々がもっと音楽に関わりたいと思うようになるだけで、僕にとっては愚かな考えだよ。それは置いておこう」

近年、移民問題は、ここ日本でも多くの注目を集めるようになりました。

“I’d like to know more about what is happening in Japan to spark these kinds of discussions. I think the best way to get along with a group of people you’re not familiar with is to get to know them. Once you scratch the surface, you will find more similarities between people than differences. We all want the same things, and we all have the same kinds of struggles, desires, etc. They just have different flavors to them. But to aliens, we all look the same, like big talking monkeys.
Unfortunately, you can’t force people to be tolerant of one another. I don’t know how to get those kinds of people to accept immigrants. But if someone wants to immigrate to your country, they probably have a love or admiration for it, so take it as a compliment. They’re not here to ruin your country. Immigrants just want to live their lives in peace, just like everyone else. It’s oftentimes scarier for them to move to a new country than it is for the natives to welcome them in. So be kind to them and they will probably be kind to you too.”


「議論を巻き起こすために、日本で何が起きているのかもっと知りたい。馴染みのない人たちと仲良くなる一番の方法は、その人たちを知ることだと思う。ひとたび表面を剥がせば、人々の間には違いよりも共通点の方が多く見つかるはずだ。みんな同じものを求めているし、同じような葛藤や欲望などを持っている。ただ味付けが違うだけだ。しかし、エイリアンから見れば、僕たちは皆同じで、大きな口をきくサルのように見える。
でもね、残念ながら、人々が互いに寛容であることを強制することはできないんだ。そういう人たちに移民を受け入れてもらうにはどうしたらいいかわからない。でも、もし誰かがあなたの国に移民を希望しているのなら、彼らはおそらくその国に愛着や憧れを持っているはずだから、それを褒め言葉として受け取ってほしい。彼らはあなたの国を破滅させるために来ているわけではないんだよ。移民は他の人たちと同じように、平和に暮らしたいだけなんだ。彼らにとっては、新しい国に移住することは、原住民が彼らを迎え入れることよりもきっと怖いことなんだから。だから彼らに親切にすれば、きっと彼らもあなたに親切にしてくれるだろう」

ゴリザデの親友の一人は、日本人です。

“Absolutely! One of my best friends is Japanese. After high school he moved back to Tokyo. I visited him while I was in college. We explored Tokyo and Kyoto together. It was one of the most important experiences in my life. I love Japanese culture. The food is amazing, the people are kind, and the history is rich. Most of my musical instruments were made in Japan too. My guitar is a Caparison, hand-made in Japan. I also have a Korg synthesizer, and a few Yamaha instruments. I love all of them.
And yes, I do like video games and anime, most of my friends do. I’m a master at the original Super Smash Brothers for Nintendo 64, and I will never back down from a challenge. I do enjoy anime as well. I think it’s very imaginative and often quite thought-provoking. The enthusiasm of Japanese voice acting is fun to listen to. Hayao Miyazaki films are my favorite anime, but I’ve enjoyed plenty of others as well. Howl’s Moving Castle is probably my favorite Miyazaki film.
To our Japanese fans I would say, thank you so much for listening to our music. It’s really amazing to learn it has made its way to Japan. I appreciate every single one of you and I hope we can meet soon. I’ve been wanting to come back to Japan for a while now, and playing music for our fans there would be a great reason to do so. Please feel free to reach out! Arigatou gozaimasu!”


「僕の親友の一人は日本人だ。高校卒業後、彼は東京に戻ったから、大学在学中に彼を訪ねたんだ。東京と京都を一緒に探検した。それは僕の人生で最も重要な経験の一つとなった。僕は日本の文化が大好きだよ。食べ物は素晴らしく、人々は親切で、歴史は豊かだ。僕の楽器もほとんどが日本製なんだ。僕のギターはキャパリソンで、日本で手作りされたもの。コルグのシンセサイザーも持っているし、ヤマハの楽器もいくつか持っている。どれも大好きだよ。
ゲームやアニメも好きでね。NINTENDO64の初代 “大乱闘スマッシュブラザーズ” の達人なんだ。アニメも好きだよ。とても想像力豊かで、考えさせられることも多い。日本の声優の熱意は聞いていて楽しい。宮崎駿監督の作品が一番好きだけど、他の作品もたくさん楽しんでいるんだ。”ハウルの動く城” は宮崎作品で一番好きかもしれない。
日本のファンには、僕らの音楽を聴いてくれて本当にありがとうと言いたいね。日本まで届いたと知って、本当に驚いているんだ。一人一人に感謝しているし、すぐに会えることを願っている。また日本に行きたいとずっと思っていて、日本のファンのために音楽を演奏することは、そのための素晴らしい理由になるだろう。気軽に声をかけてほしい!ありがとうございます!」

イランの最後の国王が支配権を失い、イスラム共和国が国を掌握したイラン革命が、このアルバムの中心的なコンセプト。1年にわたる一連の抗議行動、ストライキ、武力闘争の中で、何千人もの人々が殺されたり、避難を余儀なくされました。
ゴリザデは、アルバムのテーマ、特に革命時に殺された母親の叔父を歌った “Uncle” について、両親には話していないといいます。
「彼はイスラム教に背き、新体制に服従しなかった。だから、ホメイニにひざまずいて、”あなたが私の指導者です” と言えば、殺さないと言われたんだ。だけど、その男の顔に唾を吐きかけ、『王万歳』と言ったところ、撃たれたという話だ。かなり衝撃的だった」
ゴリザデは、ヒジャブの着用をめぐりイランで殺害されたマフサ・アミニさんの事件にも大きな衝撃を受けました。
「地球の裏側で、女性を殴り殺すのがなぜ悪いかについて考えながら、ただポツンと座っているだけで、僕はなんだか役立たずな気がするよ。でも今は、他に何をしたらいいのかわからない。僕が今思いつくのは、この言葉を広め、意識を高める手助けをすることで、変化を起こすために十分な数の人々が結集できるようにすることだ。
22歳のイラン人女性、マフサ・アミニが首都を訪れていたとき、自称 “道徳警察” がヒジャブの下の髪の露出が多すぎるという理由で彼女を逮捕した。これはイランの女性にはよくあることだが、最近政府はこの馬鹿げた法律をより厳しく “取り締まる” ようになった。彼女が拘束されている間に何が起こったのかはまったくわからないが、状況証拠によれば、彼女は頭を殴られたようだ。警察に拘束されている間、彼女が気を失って昏睡状態に陥っている映像がある。ねえ、着ている服のことで女性を殺すことに “道徳的” なことだと言えるのだろうか?
イランは美しい国だ。人々は素晴らしく、温かく、思いやりがある。僕は自分の出自に強い誇りと愛着を持っている。しかし、1979年の政権交代以来、政府はここまで堕落してしまった。これが僕の家族、そして他の多くの人々がイランから去った理由だ。もっと “世俗的” な政府が必要だ。そうでなければ、権力者は “神の名の下に” 女性を殴り殺したり、その他の凶悪な残虐行為を行うことができる。だけどそれは神などではない。悪だ。女性の権利に関心があるなら、これは重要なことだ。黒人の命に関心があるなら、これは重要なことだ。そして、もしあなたが “すべての命が大切だ” と唱えているのなら、これはあなたにとって大切なことだ。これは人権問題であり、誰も自国の政府に殴り殺されるべきではない。何か変化を起こさなければならない」
イスラエルとパレスチナの新たな火種にも言及します。


“I see it all as a tragedy. I don’t know enough about world politics or the history between Israel and Hamas to really give an informed opinion on this particular issue. All I know is that it’s sad to see. I don’t know anything about Iran’s involvement in it either, or if they’re backing Hamas, but it wouldn’t surprise me. America is backing Israel in this fight, so I’m sure Hamas is getting support from other countries as well.”

「すべてが悲劇だと思う。僕は世界政治やイスラエルとハマスの歴史について十分な知識を持っているわけではないから、この特別な問題について本当に詳しい意見を述べることはできない。僕が言えるのは、ただ見ていて悲しいということだけだ。イランの関与についても、彼らがハマスの後ろ盾になっているのかどうかも知らない。アメリカはこの戦いでイスラエルを支援しているのだから、ハマスも他の国から支援を受けているはずだよね」

ゴリザデは、このアルバムはコンセプチュアルなもので、彼の家族の音声記録やイラン革命の映像まで含まれていますが、彼は歌の中の移民の経験が一般の聴衆に語りかけることを望んでいます。
「僕らを応援してくれている人たちには本当に感謝している。僕らの演奏を見るためにお金を払ってくれたり、シャツやCDを買ってくれたりするのは、本当にクールなことだと思う。気に入ってくれることを願っている。できるだけ多くの人に、中東で起こったことや、移民の現状を見せたいんだ」
音楽は、人と人との調和のために、何ができるのでしょうか?

“People enjoy and connect with music, which can enrich a person’s life. And that certainly is important. However, I don’t think music itself necessarily does anything to create change for a peaceful or better world; it’s people who do that. Music, just like any artform, can inspire a person to act, but it’s still up to the person to put one foot in front of the other.
A great example of this is the song “Baraye”, written by Iranian artist, Shervin Hajipour. It is a song inspired by the death of Mahsa Amini, who was killed by the Iranian government last year. Her death sparked a protest in Iran, and that song was so moving that it became the anthem of the protest. I think it inspired people to get engaged with the movement, and it also helped spread awareness of what was happening. In those regards, music can help create a better world, but it’s still up to people to take action.”


「人は音楽を楽しみ、つながり、それによって人生を豊かにすることができる。それは確かに重要なことだ。しかし、音楽そのものが必ずしも平和な世界やより良い世界への変化をもたらすとは思わない。音楽は、他の芸術と同じように、人に行動を促すことはできるが、それでも片足を前に出すのはその人次第だからね。
その好例が、イランのアーティスト、シェルヴィン・ハジプールが書いた “バラエ” という曲だ。この曲は、昨年イラン政府によって殺害されたマフサ・アミニの死にインスパイアされたものだ。彼女の死はイランでの抗議を呼び起こし、この曲はとても感動的で、抗議の賛歌となった。この曲は、人々が運動に参加するきっかけとなり、また、何が起きているのかという認識を広めるのに役立ったと思う。そういった点で、音楽はより良い世界を作る手助けになる」

参考文献: Prog-rock band Soleo tells a family’s story of fleeing Iran in the 1970s

COVER STORY 【VAI : SEX & RELIGION】 30TH ANNIVERSARY


COVER STORY : VAI “SEX & RELIGION” 30TH ANNIVERSARY

“At The Core Of All Religion And At The Core Of All Sex, There’s Love. It’s Just Interesting To See How That Gets Perverted And Transformed.”

SEX & RELIGION

「”セックス” と “宗教” はとてもパワフルな言葉だ。”宗教のセックス” は、”Passion of Warfare” “戦争の情熱”のようなものだ。最も純粋な形のセックスは、2人の個人が意識の最前線で神との親密な関係を見出す場所なんだ。それは神聖な愛の行為だ。そしてもう一方の端には、欲望という倒錯がある。殺人のようなものまである。私たちの多くは、その中間に位置していると思う。
宗教も同じだ。宗教の基本は純粋なインスピレーションであり、ある個人が現れて神を悟り、その指示を世界に与えるところから始まった。しかし、それがエゴや関係者のニーズに合わせてねじ曲げられる。すべての宗教の核心には愛があり、すべてのセックスの核心にも愛がある。それがいかに曲解され、変容していくのかを見るのは興味深い。つまり、宗教は歴史上、戦争の最大の原因のひとつなんだよ。
誤解しないでほしいが、私はどんな宗教も非難しているわけではない。しかし、世の中には宗教やセックスで金儲けに走っている連中もいる。彼らはお金で希望の約束を売る。信じてほしいが、神の美しい青い地球上で、宗教的な変質者ほど危険なものはない。とにかく、私はこの2つのコンセプトに非常に興味をそそられる。それに、多くの人がセックスと宗教にこだわっているしね」
30年前の Steve Vai の言葉です。さて、彼は預言者でしょうか?それとも占星術師?とにかく、今やギター世界すべての人から敬われ、愛されるようになったギターの魔術師は、30年前の時点で倒錯した現代の暗闇を予見していました。特に、日本に住む私たちはつい最近、統一教会の横暴を目にし、DJ SODA の性被害を目撃したばかりです。Vai の言うように、核となるべきは愛、探るべきは要因であり、曲解の理由であるはずなのに、私たちはしばらく祭のようにSNSで大騒ぎして、被害者も加害者も焼け野原のごとく断罪して、そうしてすぐに何もかも忘れてしまいます。実際、このレコードのワーキング・タイトルは “Light Without Heart”、心なき光だったのですから。
最近日の目を見た Vai のバイカー・カルチャー作品 VAI/GASH のアルバムを差し置いて、Vai が唯一、リーダーとしてバンド形式で制作した “Sex & Religion” は真のゲームチェンジャーでした。それはもちろん、音楽的な革新性、多様性のみならず、扱ったテーマの深淵とも密接に関連しています。つまり、”Sex & Religion” は音楽とコンセプト、その両輪が激しく火花を散らしながらもガッチリと噛み合って、”ヘヴィ・メタルでも実験や哲学が可能” であることを証明した先駆的な作品だったのです。

加えてこの7弦ギターの悪魔は、ベースの怪人 T.M. Stevens やドラムの名手、Terry Bozzio と意気投合してアルバムの異様な基盤を固めました。最後のピースは Devin Townsend。分身となるボーカルに選んだのは、20歳で、カナダのバンクーバー出身の無名のシンガー/ギタリスト。後に、STRAPPING YOUNG LAD やソロ・プロジェクトでメタル世界を背負う鬼才の発掘でした。
David Lee Roth のバンドや ALCATRAZZ, WHITESNAKE でプレイしてきた Vai は、派手で優秀なリード・シンガーを知らないわけではありません。キッズ・ロックの Bad 4 Good をプロデュースしたことで、レコーディング・スタジオでの若者のハイテンションに対する対処法も学んでいました。しかし、奔放で運動神経が旺盛な Devin には、事前の経験ではまったく歯が立たなかったのです。しかしこの噴火直前のキッズは、ダンテの地獄篇の最下層における迷える魂のように叫ぶことも、ゲーテのように神々しくもロマンチックに唄うこともできました。
「彼のギターケースにウンコをした。タッパーにウンコを詰めてギター棚に忍ばせたりね。感情的に未熟すぎてそんなやり方でしか不満を表せなかった。彼は唖然として、なんで…?って感じだったけど、今も見守ってくれてるよ」
Vai が Devin に手を焼いたのは、Devin が Steve Vai 式裕福なロックライフが気に入らなかったから。それでも巨匠は決して匙を投げたりはしませんでした。そんな Vai の寛容さは、自身のヒーロー Allan Holdsworth に会った時の体験が元となっています。
「Allan はとても優しかった。とても優しく話しかけてくれた。もし自分が有名になったり、誰かから尊敬されたりしたら、こんな人になりたいって思ったんだ。だからこそ、今もそういう人間になりたいんだ。誰かに気を配り、興味を持ち、心配し、柔らかく、ね。完全に傲慢じゃない。僕は、路地にいる18歳か19歳の子供だったにもかかわらず、だ。そしてショーは驚異的だった」

“Sex & Religion” のほとんどの曲はメタル/ハードロック/ポップスの領域から始まりますが、Vai のトレードマークである破天荒なアックスワークに後押しされ、すぐにハーモニーやリズムが奇妙な方向へと逸脱していきます。”Frank Zappa のせいだよ” と巨匠は師匠の名をあげて笑います。
Vai がまだバークリー音楽院の多感な3年生だった頃、Frank Zappa はこの若いギタリストの天才的な献身ぶりを高く評価し、Zappa のバンドの複雑なアレンジをすべて書き写すという困難な仕事を任せました。Vai はその知識を手に、卓越した技術と才能、狂信的とも言えるほどの献身的な努力によって、偉大な存在へと上り詰めたのです。
“Sex & Religion” 以降、時に歌も活用しつつ魅惑のインスト・アルバムを連発することとなる Vai ですが、93年当時は歌モノに戻ることを自然な流れだと語っていました。
「コンセプトとしては、ヴォーカリストと、強力で明確なスタイルを持つプレイヤーたちと一緒にレコードを作りたかった。ロックの要素もありつつ、私が普段やっているようなひねりのあるものを作りたかった。そもそも、”Passion And Warfare” 以外は、ボーカルを使ってきたんだ。ボーカル・アプローチに戻るのは自然な流れだと思ったんだ。だからといって、今後私がやることすべてにボーカルが入るというわけではない。だから私はミリオンセラー・アーティストにはなれないだろう」
Devin Townsend はテープの山の中からまさに “発掘” されました。それは、Vai がかつて “David Coverdale ほど歌がうまい人はいないし、David Lee Roth ほどショーマンな人もいない。でも、両方のシンガーの長所を兼ね備えたシンガーが必要なんだ” と語っていたその要求を完全に満たす人物でした。
「ゴミ袋5つ分くらいのシンガーのテープがあるんだ。みんな素敵で、歌がうまくて、安全でいい曲を書くんだ。でも、Devin が作った “Noisescapes” というテープは、インダストリアルでヘヴィだけどメロディアスという、想像を絶するハードコアな音楽だった。テープを作ったときはまだ19歳だった。彼はそれを私のレコード会社(Relativity)に送り、私はその会社を通してそれを手に入れた。1分間そのテープを聴いた瞬間、彼は特別な人だと思った。私たちはタホの私の家に集まった。私と彼とエンジニアのリズだけで、雪の中を転がったり、ジャグジーでジャンプしたりした。彼には本当に素晴らしい、何にでも挑戦しようとするアティテュードがある。彼は本当に外向的で、素晴らしいリード・シンガーだった」

異形ドレッドの Vai と、全身にマジックで何かを書き散らしたスキンヘッドのイカれたサイコ野郎の組み合わせは衝撃的。パワーがあり、音域が広く、風変わりで、しかも独自のスタイルを持った Devin は、さながらドーピングをブチかました Mike Patton のように、Devin の言葉を借りれば “金玉で” 叫んでいました。さらに蓋を開けてみれば、Devin Townsend は素晴らしいリード・シンガーであるだけでなく、素晴らしいギタリストでもありました。
「彼は素晴らしいギタリストなんだ。本当に驚異的なスウィープをやることができる。彼はおそらくライブでたくさんギターを弾くだろう。でもこのアルバムでは、ギターは全部自分で弾いた方がいいと思ったんだ。将来的には、もっとライブ・ジャムを録音するかもしれない。でも、このアルバムがフュージョンみたいにならないように気をつけたかったんだ」
実際、Steve Vai はギター・インストの第一人者ですが、その楽曲のほとんどはフュージョンではなくあくまでロックやメタルです。
「まあ、私が言いたかったのは、悪いフュージョンもできるということだ。私にとってフュージョンはディスコと同じで、ある種のテイストなんだ。フュージョンは私の生い立ちの大部分を占めているし、フュージョンから得られる素敵な瞬間もあると思う。6分の曲の中で、特定の2小節のフレーズがとてもうまく機能しているとかね。でも、曲全体がギターソロで埋め尽くされ、蛇行するようなオーギュメント・ナインスコードで構成されてしまうと、典型的なフュージョンになってしまうからね」
たしかに、このリズム隊で典型的なフュージョンをやってしまうと、Steve Vai にしてはあまりに “安全” なコンセプトとなってしまったでしょう。
「T.M. Stevens については、スペインでジョー・コッカーと一緒にテレビ・コンサートで演奏しているのを見た。彼が演奏できることは知っていたが、あれほどうまく演奏できるとは知らなかったね。それに、彼は本当にうまくなりそうなルックスをしていた。Terry Bozzio は、ずっと一緒に仕事がしたかったんだ。ずっと好きなドラマーだった。彼は普段ロックンロールが好きではないから、このプロジェクトに参加させるのはとても奇妙な挑戦で、でも彼はやってくれた」

もちろん、Vai 自身の挑戦も継続して行われました。
「まあ、”Rescue Me Or Bury Me” という曲があって、これはギター・アルバムから最も遠いところにある曲なのに5分間も蛇行する長いギター・ソロがあるんだ(笑)。そこでは本当に奇妙なテクニックに触れていて、ある音をタップし、ワーミー・バーを引き上げて、バーを引き上げたままメロディーを弾くんだ。それからバーを押し下げ、バーを押し下げたまま演奏する。バーを上げたり下げたりしながら演奏する。これはとても難しい。見事なイントネーションが必要だしね。クールなのは、ギターではとても不自然に聞こえる音符のベンドが自然にできることだ。
あのソロの一番最初にやったもうひとつのことは、ピックの代わりに指で弾くことだった。そうすると、Jeff Beck にとても似ていることに気づいたんだ。同じ音でも、弦の太さでトーンが変わったりするテクニックも使ったね。”Touching Tongues” では、ハーモニクスとワーミーペダルを組み合わせて天空の音を創造したし」
Vai はギターを弾く際、自分を律するために瞑想をすることで知られています。
「まあ、みんな瞑想していると思うよ。私が瞑想を意識するようになったのは、Zappa のために採譜をしていたときだ。自分の心の別の部分を使っていることに気づいたんだ。意識がぶれることなく何かに集中すると、本当に新しい世界に入り込むことができる。テープ起こしをするときもそうだし、練習するときも、ギターのテクニックに集中する。気が散ることなく集中できたとき…それはとても難しいことだけど…望む結果を得ることができる。”Sex & Religion” には、瞑想の賜物である瞬間があったと思う」
ただし、瞑想もギターも、Vai にとっては手段の一つでしかありません。
「音楽は素晴らしいし、心から愛している。でも、それは私にとっては手段なんだ。私の目的は、ギターをファンタスティックに弾けるようになることではない。素晴らしい演奏に触れたことはあるよ。でも、ギターを弾くことは私にとって大切なことではあるけれど、人生で最も重要なことではないんだ。
もし私が手を失ったらどうなるだろう?培ってきたものすべて失う可能性がある。耳が聞こえなくなったり、目が見えなくなったり……。そしたらどうなる?ギターの腕前は?君には何がある?あるのは自分自身、つまり意識だけだ。だから、私の次の戦いはギターとの戦いではない。自分自身と自分の意識との戦いだ。それはいつも自分とともにあるものだから」

Vai の言うとおり、”Sex & Religion” の革新性はギター以上にそのコンポジションにあるのかもしれません。ロックやメタルでは通常聴くことのないハーモニーやモードが溢れているのですから。
「他のレコードやロックでは聴いたことのないようなモードが聴こえるだろう。例えば “Deep Down In The Pain” の最後、奇妙な誕生のシークエンス。何が起こっているかというと、子供が子宮から出てくるんだよ。神性の声を聞いたり、質問したり、奇妙なことばかりしている。でも、バックで聞こえてくるのは、私が考案した音階に基づいた荒々しい音楽なんだ。
私はそれを “Xavian” “ザヴィアン” スケールと呼んでいる。私がやったのは、12音列をキーボードでサンプリングして音を作ること。そこから、いろいろな音律を試すのが好きなんだ。(ヨーロッパの12音音階は、オクターブ間の周波数帯域を分割する1つの方法に過ぎない。他の文化や、ラモンテ・ヤングやウェンディ・カルロスといった作曲家の作品には、異なるシステムが存在する。現代のシンセサイザーの中には、別の音律を提供するものもある)
オクターブを9段階か10段階に分けた、さまざまな音階があって、私はそれを “フラクタル” と呼んでいる。”Deep Down In The Pain” の最後では、オクターブを16等分したスケールを使った。つまり、その中の各半音階は、従来の半音階とはちょっと違っていて、100微音階に対して60微音階なんだ。私はこれを半音階と呼ばず、”クエーサー” と呼んでいる。
その異なる音程が、この16音列から私が抽出した10音音階であるザヴィアン・スケールを作り出す。このスケールを使って和音を弾くと、まるで神の不協和音のようになる。ザヴィアン・スケールから広がる、ねじれた感情の世界を想像してみてほしい!私たち人間は、進化の過程で音楽によって形作られてきた。より多くの人がこのようなフラクタルの実験に没頭するようになれば、まったく違った感情の状態が生まれると思う。しかし、METALLICA がザヴィアン・スケールでジャムるのを聴くことはないだろうね (笑)。Kirk に16フレットのギターを貸すよ。普通のフレットの楽器ではこんなことはできない。オクターブまで16フレットのギターがあるんだ。スティーブ・リプリーが何年も前に作ってくれたんだ。彼はオクターブに対して24分割のものも作ってくれたよ」
一方で、”Sex & Religion” には類稀なるフックとポップ・センスが宿っています。
「あの “In My Dreams With You” のように、フックのあるポップなコーラスは、実は僕の友人でロジャー・グリーンウォルドという男が書いた曲からきているんだ。彼は本当に優れたギタリストであり、プロデューサーでもある。私が大学生の頃に彼が書いた曲の一部なんだけど、私はずっとこの曲で何かやりたいと思っていたんだ。
基本的に曲の構成は全部書き直したんだけど、それからデズモンド・チャイルドと一緒に歌詞を考えたんだ。デズモンドは本当にユニークな作詞家だ。彼は BON JOVI や AEROSMITH のようなバンドで大金を稼いだから、多くの人は彼のことをシュマルツ・ポップの帝王だと思っている。でも、彼は本当に何でもできるんだ。”In My Dreams With You” はこのアルバムに収録された彼との唯一の曲だけどね」

Devin は歌詞に関して何か意見を言ったのでしょうか?
「”Pig” は Devin と一緒に書いたんだ。すごくいい曲だよ。かなり奇妙な曲だね。”Pig” は、ある日MTVで BLACK CROWS を見ていて生まれたんだ。私は彼らが好きなんだよ。彼らが “Remedy” という曲を演奏していて、すごくいい曲だと思ったんだ。で、誰もが共感して一緒に歌えるような、ストレートな曲が必要だと思った。それで “Pig” を書いたんだ。
それに当時はよく PANTERA を聴いていたんだ。Dimebag Darrell は、私のお気に入りのギタリストになったよ。彼はどうかしている。カミソリの刃のような独特のトーンを持っている。
だから、このアルバムはおそらく現存するレコードの中で最もラウドなミックスになった。カオティックなハーモニーのフリー・フォー・オールだ。彼らが街に来たときに一緒にプレイしたかったんだけど、残念ながら私はその時街にいなかったんだ。
彼が TIN MACHINE と一緒に演奏するのを見たんだけど、今まで見た中で最も楽しいギター・コンサートのひとつだったよ。彼はとてもアウトなんだ。彼は本当にクレイジーで神経質なビブラートを持っている。もし彼が “Remedy” のような曲を書こうとしたら、おそらく “Pig” のようなレフトフィールドなものを書くだろうね」
2人のクリエイティヴな巨人が集まれば、傑作が生まれると同時に、大量のカオスと対立も生まれるもの。「僕らはコインの裏表みたいなものなんだ。僕らは仲がいいんだけど、お互いに潰瘍を作ってしまうんだ」と1993年のインタビューで Devin は語っていましたが、近年 “Modern Primitive” での共演などで雪解けは確実に進んでいるようです。
「私たちは2人とも、自分たちの好きな音楽に対する強いビジョンと願望を持っている。”Sex & Religion” に取り組み始めた頃、私はそのビジョンにかなり集中していた。素晴らしいシンガーが必要で、Devin を聴いたとき、すぐに “この人だ!” と思った。でも、当時私は、これが私のビジョンであり、私が集中したいことという非常に厳格なアプローチをしていたから、曲作りやプロデュースに関して、クリエイティブなコラボレーションはあまりなかったんだよ。日本盤のボーナストラックの “Just Cartilage” と、Devin と私が一緒に書いた “Pig” 以外はね。実はこの2曲は私のお気に入りの曲で、私がコントロールを固く握っていたのを緩めたゆえに良いものができた。でも残念ながら、あの時は誰もが私の神経質な要求に従うことになった。当時は、Devin がどれほど才能があり、創造的であったかを理解していなかったんだ」

たしかに、Terry Bozzio も当時の “やりすぎ” な Vai の姿を鮮明に記憶してきます。
「Steve とは “Sex and Religion” で一緒に仕事したが、ちょっと問題があって、辞めさせてもらった。今でも仲は良いけどね。彼は仕切りたがるんだよ。俺とは音楽へのアプローチが全く違う。俺は即興を重んじる。彼はあらかじめ全部組み立てておいて、メンバーにいちいち指示する。なんだか工場で働いてるみたいな気分だった。ほとんど全ての小節ごとに喧嘩してたような感じで、ちっともクリエイティヴじゃなかったんだ」
Devin はしかし、Vai の当時の “コントロール・フリーク” ぶりを擁護します。
「ちょっとだけ悪魔の代弁をさせてもらえば、僕は当時19歳で、16歳のときに Steve のレコードを聴きまくっていた。両親の寝室で “クロスロード” を見て、大好きになったのを覚えているよ。Steve と一緒にやるとなったとき、それは僕にとって突然の公然の出来事で、だから彼と別のアイデンティティを持つことに必死だったと思う。僕は僕でありたかった。で、僕が持っていたのは、完全な好戦性だった。その多くは Steve とは直接関係なく、物事に対する自分の反応に関係している。”Sex & Religion” の経験を経て、僕は何かを誰かに指図されるのが嫌になった。その好戦的な態度が、最終的に STRAPPING YOUNG LAD になった。だから、僕の音楽的成長、そしてそのメンタリティに根ざした多くのことに大きく影響しているんだ。40代半ばになった今でも、20代前半の頃と比べれば、好戦的な感情はずいぶん減ったかもしれない。でも、すべてをコントロールするという点では、それに共感できる人がいるとすれば、それは僕もそうだ。だから、あの時 Steve がしたことは、そのビジョンのために必要なことだったと思う。同じ立場なら、僕もまったく同じことをしたと思うよ」
Devin に不満があったとすれば、それは音楽産業そのものに対してでした。
「僕は最初から、少なくとも自分の音楽的思考をまとめ始めたときから、音楽の本質は人間を超えたもの、ある意味で神聖なものに根ざしていると感じていた。そして、LAで突然、目が覚めたんだ。Steve のせいでも、彼の周りの人間のせいでもない。言ってみれば、音楽業界と俳優業界のせいだ。もちろん、そこには Steve のように努力して、地に足をつけた人も多い。だけど一方で、名声や地位、コネクションが幅を利かせているのも事実だからね」

Vai は “Sex & Religion” 以降の Devin の活躍に目を細めています。
「Devin の作品は多様だ。そして、その多様性の中に、声という糸がある。アンビエントのレコードであろうと、準カントリーのレコードであろうと、メロディーと Devin のプロダクション・サウンドの発泡性がある。すべてが美しく包み込まれている。私が最も注目したことのひとつは、Devin の音楽は、Devin の人生を通しての個人的な変容に深く根ざしているということだった。
例えば、”Truth”。私にとってこの曲は、おそらく Devin のカタログのどの曲よりも、ただ爆発している。Devin が今いる場所、そしてこの曲が今の Devin にとって何を意味するのかに折り合いをつけるために、この曲を再訪し、再録音したことはとても興味深い。音楽は、自らの内面を映し出す結果のようなものだから。浸透しているよ。Devin がやっていることを、多くのファンは本当に理解している。私自身、自分自身の成長の捉え方と類似している部分もあって、とても興味深いね。そのひとつは “Truth(真実)” にある。心の無知に身を委ねることで、真実が見えてくる。その言葉を口にするだけでも、そこにはたくさんの知恵が詰まっているよ」
Devin はこの30年で音楽業界が衰退して、”Truth” を見失い、”クソ” になったのは幸せな偶然だと考えています。
「ラジオを追いかける理由がなくなって、その時点で “さて、どうしよう?”という感じで。それは大きな重みから解放されるようにも思えた。架空のマーケットを喜ばせる必要がある?どうせ売れるものは売れるんだから、売れないものは売れないんだから、いっそのこと街に繰り出そう!みたいな感じ。僕の前では多くの “売春” が行われている。僕は絶対的な強迫観念を持つ完璧主義者で、これまで何一つうまくいったことがないし、これからもうまくいくことはないだろう。でもね、この苛立ちの底流が推進力になっているんだ」
Vai も目的は “売ること” ではないと同意し、音楽業界本来のあるべき姿を見据えます。
「私が気づいたのは、”Sex & Religion” の、あれだけの音楽をレコーディングしたとき、自分がいかに自由で無邪気だったかということだ。何の期待もしていなかった。自分以外の誰かを喜ばせようとしないでね。あの頃の私は、”自分を楽しませるために何ができるか?” だけを考えていた。ある面では、何年もの間、音楽業界から遠ざかっていた。なぜなら、それが何かを創作することの価値であり、まず重要なのは自分自身を喜ばせることだからだ」


参考文献: GUITAR WORLD:Steve Vai Discusses Devin Townsend and New Album, ‘Sex And Religion,’ in 1993 Guitar World Interview

PREMIER GUITAR:PG Exclusive! Devin Townsend Interviews Steve Vai

EON MUSIC: STEVE VAI

COVER STORY + NEW DISC REVIEW 【KING’S X : THREE SIDES OF ONE】


COVER STORY : KING’S X “THREE SIDES OF ONE”

“I wrote lyrics with my age in mind, so it has become sort of my mantra for what I’m doing for the rest of my life”

THREE SIDES OF ONE

これまで、KING’S X ほど見過ごされてきたバンドはいないかもしれません。ただし、dUg Pinnick, Ty Tabor, Jerry Gaskill の3人は、チャートのトップに立つことはなかったかもしれませんが、熱心なファンの心には深く刻まれ続けています。
80年代半ば、このトリオはテキサス州ヒューストンに渡り、メガフォース・レコードと契約。”Out of the Silent Planet”(1988)、”Gretchen Goes to Nebraska”(1989)、”Faith Hope Love”(1990)と、口紅とロングヘアのゴージャスな時代において、あらゆるジャンルの規範を無視した伝説のアルバムを3枚録音しました。
だからこそ、90年代初頭には、多くの仲間のロックバンドを虐殺したグランジの猛攻撃から免れることができたのかもしれません。音楽界の寵児として、また “次の大物” として、KING’S X はアトランティック・レコードに移籍し、セルフタイトルのアルバム(1992)を録音しましたが、残念ながらビルボードに並ぶほどの成功は得られませんでした。それでも彼らは、90年代から2000年代にかけて、感情を揺さぶる、音楽的に豊かなアルバムを次々と発表し続けました。
そうしてロックミュージックで最も露出の少ないバンドは、2008年に突然沈黙するまで、自らの道を歩み続けたのです。
休止中も、dUg は KXM や GRINDER BLUES で音楽を作り続け、自身の名義でレコードをリリースするなど、ゲリラ戦士として戦いを続けていました。クリエイティビティに溢れるベーシストは KING’S X の終焉を考えることはありませんでしたが、一方で、次のアルバムも必ずしも期待しているわけではありませんでした。こうして14年という長い間、KING’S X はただ沈黙を守り続けました。世界は変遷し、新しい現状が形成され、KING’S X はもはや時代の一員ではなくなったかに思われました。
しかし、14年という長い年月を経て、その門戸は開かれます。ついに彼らは再び一緒に作曲し、レコーディングすることを決断したのです。その経緯を dUg が語ります。
「72歳になるんだけど、歳を重ねた実感があるんだ。自分の年齢を意識して歌詞を書いたから、アルバムは残りの人生をどうするかという詩的なマントラのようなものになった。基本的に、私は人生が終わるまでなんとか乗り切るつもりだ。世の中が見えてきてね。友達のこと、Chris Cornell, Chester Benington, Layne Staley…死んだり自殺したりした人たちのことを考えると、ただただ痛くて、”自分は絶対にそんなことはしない” といつも思っている。人生を乗り切るためには、麻酔をかけられなければならないだろう。けど、あの世で何が起こっているのかわからないし、この世で惨めで痛い思いをしてまで、何も知らないあの世に移りたいなんて馬鹿げてる…それが私の論理なんだ。だから、アルバムはそういうところから生まれたものなんだ」

たしかに、”Three Sides of One” は、一見すると瞑想的な作品に見えます。
「まあ、メンバーはレコードを作りたくなかったんだ。なぜなら、作るなら今まで作ったどの作品よりも良いものでなければならなかったから。これまでは、自分たちがやったアルバムのレパートリーに加えるべきものがあるとは感じていなかったんだ。だから、14年かかってようやく “よし、これはいけるぞ” と思えたんだ。私自身は、初日から準備万端だった。14年の間に、いくつかのサイド・プロジェクトを立ち上げたり、いろいろなことをやっていたからね。私が持ち込んだ曲は27曲で、全部新曲だし、Jerry と Tyも何曲か持ち込んでいて、それも全部新曲だ。それで、リストに載っているものを全部、十分な量になるまで実際に覚えていったんだ」
アルバムのタイトル、”Three Sides of One” は3人が共有する生来のケミストリーを表現しています。
「いつもは、アルバムの名前は決まっているんだけど、今回は誰も思いつかなかったんだよね。それで、マネージャーが “Three Sides of Truth” と言ったんだけど、私は、なら “Three Sides of One” はどうだろうと思って、みんなが、ああ、それならいいと言って。そして、そこから出発したんだよ。しばらくすると、子供を持つのと同じで、名前はそれほど重要ではなくなるものだ (笑)」
アルバムには、歳を重ねた3人の自然な姿がさながら年輪のごとく刻まれています。
「Jerry は、基本的に臨死体験から多くの曲を書いている。そして Ty は、今の生活を観察して曲を書いた。私も同じで、72歳になるんだけど、世界が今までの人生とは違って見えてきたんだ。だって、今まで生きてきた距離に比べたら、もうそんなに長くは生きられないんだとやっとわかったからね。そして、そのことについて話したり歌ったりしたかったんだよね。70歳を迎えて、私にとって一番大きなことは、今の世界をどう見ているかを詩的に歌詞にすること、そして同時に自分の周りで起こっていることを書くことだった。政治や人々が憎しみ合う様子など、でたらめなことが起きていることは分かっていたんだ。それを歌うんだけど、ただ説教しているように聞こえたり、すでに聞いたことのあるようなことを言ったりしないように、工夫しているつもりなんだ。
今は、言葉に気をつけないと、アメリカでは自動的に批判される。私は問題を解決するのが好きなんだ。私の問題は、直せないものを直そうとすること。私はいつも、なぜ世界がうまくいかないのかを論理的に解明しようとしてきた。ある意味、人は全員とは分かり合えないというのが結論なのかもしれない。だから、年齢は私たち全員に影響を与えたと思うんだ。また、Jerry はバンドに曲を提出することはあまりない。でも実際は、彼の曲が全員の中で一番いい曲だと思うこともあるんだ。だから曲を持ってきてと言ったんだ。自分たちのアルバムにするために、本当に頭を使ったんだよ」

dUg は今回、”慣れ親しんだバンドでありながら、新しいバンドにいるような気がする” という言葉を残しています。
「新しいバンドに入ったという感じではなく、自分たちを再発見したという感じだと思う。なんというか、”自分は実はいいやつなんだ” と気づくような感覚なんだ。わかるかな?結局、スタジオからずっと離れていて、演奏し始めると、疑心暗鬼になるんだよね。つまり、私たちはいつも自分たちのやることなすこと全部が嫌で、本当のアーティストらしく、自分の芸術に対して否定的なんだ。でも今回は、最初に作った曲のとき、スタジオに行ってベーシックなトラックを聴いたら、生まれて初めて “おお、すごいな!” 思ったのを覚えているよ。やっとわかったよ…と。私たちの演奏には、欠点ばかりに気を取られていて気づかなかった何かがあるんだよな。だから、とてもエキサイティングで、もっともっと探求したくなったんだ」
その新たなマインドは、アルバムの歌詞の内容にも表れています。
「絶望的に見える世界の状況も、人類に何らかの救済や和解があることを願いつつ、それが歌詞に深く刻み込まれている。まあ、自分の周りで起こっていることを考えただけなんだけど。”Give It Up” は、私の気持ちを代弁してくれているような気がするね。私はライトが消えるまで、絶対に諦めない。Layne, Chris, Chester…友達が自殺していくのを見てきたんだ。クリスが死んだ頃にこの歌詞を書いていて、思ったんだよ。”ライトが消えるまで、絶対にあきらめないぞ” と。だって、死後の世界に何があるのかわからないし、そこを好きになれないかもしれないから。だから死ぬことは考えないよ。今できることを精一杯やりたい。最後に麻酔をかけられるまで、ずっとここにいたい。これが私の知っているすべてで、終わるまで乗り切るつもり。それが私にとっての知恵だから。それ以外のことは、他の人が決めることだけどね」

“Swipe Up” は時代を反映した楽曲。
「この曲は Jerry がジョン・ボーナムのスイッチを入れているね。インターネットや iPhone を利用しているときの体験がテーマになっているんだ。私たちはただスワイプし続けるだけで、アルゴリズムが自分だけの小さな世界の中で欲しいものを与えてくれる。だから、この曲は全部それについて歌っているんだ。iPhoneの小さな世界で生きていることについて」
テクノロジーの進歩は、音楽全般に対して悪影響を及ぼしているのでしょうか?
「進歩が起これば芸術も変わる。そういう観点では考えていないよ。例えば、最初のドラムマシンが登場した時、多くのドラマーが職を失った。しかし、突然、ドラムマシンのような安定性とタイミングを持った機械が登場したことで、私たちは皆変わり、クリックトラックで演奏するようになり、ドラマーはより良くなったんだ。オールドスクールはまだ存在して、まだレコードを買い、CDを買っている人もいるけど、新しい世界では音楽の見方や聴き方が違うよね? 彼らは iPhone で音楽を聴くし、彼らが好きな音楽も全然違う。それが “彼ら” の音楽なんだよ。
私が若い頃、THE ALLMAN BROTHERS を聴いていたら、親が “そんなのブルースじゃない” と言うようなものさ。よく、”BB KING を聴きなさい” と言われたものだよ。つまり、進歩とは、そこから何を学ぶか、そして自分の芸術をどのように変化させるかということなんだ。私は、すべてのことをポジティブにとらえるようにしている。難しいけどね。ナップスターが登場したとき、みんなが我々の音楽を配り始めて、それは最悪だった。それで、私たちはひどい目に遭ったよ。でもね、それでどうなったか?私たちは、人々が買ってくれるような素晴らしい商品を作る方法を学ばなければならなかったし、人々が私たちのライブを見に来るような良いコンサートをやらなければならなくなった。自分に起こることはすべて、自分なりの方法で適応していくしかないんだ。あの出来事で泣く人がいるなんて、そんなの戯言だ。泣いてばかりじゃダメだ。立ち上がって、やり遂げるんだ」

ネットがもたらしたものとその弊害にも言及します。
「人との関係において私が常に念頭に置いているのは、相手の行動を理解し、自分の気持ちを明確にして、争いのない方法でお互いに共存できるようにすることなんだ。私はいつも、平和を作るための新しい方法を探している。昔、このことを歌にしたことがあってね。私の人生は、どうやって人と良い友達になるかの積み重ねだった。彼らを知り、彼らを理解し、彼らを愛するようになることのね。
私は、人と一緒にいて、同意したり、反対したりして、みんながうまくやっていけることに心地よさを感じていたし、そのことに満足していた。だけど突然、アルゴリズムが入ってきて、みんながYouTube やスマホなどを見ていると、ビッグブラザーが私たちの行動をすべて見ていて、私たちの好みをフィード、与えてくるようになった。それが始まって10年ほど経ったよね。遂に私たちは、スマホの向こうに同じ現実を持っている人は一人もいないというところまで導かれてしまった。一人もね。一つの信念に溺れるまでとことん与えられる。そして、突然、誰も信用できなくなり、それぞれが快適で同じ意見を持つ人だけが集まる洞穴の”部族”に戻ってしまうんだ。
インターネットがもたらしたもの、それは私たちが原始人だった頃のような “部族”を生み出したということなんだ。
私には出口がわからない。今のところ、出口は見えないよ。たとえコンピュータを全部止められても、私たちにはすでに強固な”部族”がある。そのどれもが外部からの影響を受けないようになっているんだよ。変えることができる唯一のものは、洪水や宇宙人の侵路で、全員が警戒心を捨てて人類のために戦い、何か統一的な危機が訪れることしかないよね」
アルバムのクローサー “Everything Everywhere” はまさに完璧なエンディングです。
「ビートルズのようなサウンドの曲を書きたかったんだ (笑)。観客たちが叫びながら歌っているような感じで、私のアンセムという感じ。大勢の人が手を挙げて歌っているのを見れたらいいなと思うんだ。そうしたら気持ちいいからね。この曲には真実の要素が含まれていると思う。なぜなら、私たちは皆、愛を探しているから。愛には、たわごとをかき分け、すべてを癒し、すべてを乗り越える力がある。この曲は私の家路であり、私の癒しだから」

他の作品よりも優れていなければ、必ずしもアルバムを作る必要はないということは、14年経った今、この作品はこれまでやってきたことをすべて上回るということなのでしょうか?
「ああ、そうだね、このアルバムは今までのどの作品よりも優れているね。というのも、私たちは43年間バンドとして活動してきたわけだから、何をするにしても、すでにやったことよりも良くなければならない。あらゆる意味でそう思っているよ。例えば、子供にマーカーを持たせて、 “毎日、壁に直線を引きなさい” と言うと、50歳か60歳になる頃には、その直線があまりにもまっすぐで、びっくりするくらいになるはずだ。だから、私が考えるに、自分のやっていることを続けていれば、必ず良くなる。それは当たり前のことなんだよ。
ZZ TOP や MESHUGGAH など、私たちと同じくらい長く活動しているバンドを観に行って、20年、30年前に書かれたものを今聴くと、”ああ、同じ曲なのに、どうしてこんなに素晴らしく良く聞こえるんだろう” と思うことがある。だから、私たちも同様に良くなっていると思う。曲作りに関しては、とにかく曲を作り続けて、みんながそれを気に入ってくれることを祈るしかないけどね。でも、シンプルな曲の書き方や、複雑な曲の書き方を学び、それを成功させるために、あらゆる方法で限界に挑戦し続けているんだ。それでも、誰かがつまらないと文句を言うかもしれない。だから、結局は、自分の頭の中に何があるのか、そして、世界中が納得するような曲を書きたいと思ったときに何をやり遂げることができるのか、ということなんだ。たとえそれが、おそらく実現することのない盲目的なファンタジーであっても、それは私の目標であり、実行するだけでもやりがいがあるんだ。つまり、人に伝わろうが伝わらなかろうが、音楽をやり続けること、それが僕にとって最も意味のあることなんだ」
心の中で、KING’S Xはもう二度とレコードを作らないかもしれないと思ったことはあるのでしょうか?
「本当に考えなかったよ。唯一、もう二度とレコードを作らないかもと考えたのは、Jerry が初めて心臓発作を起こしたとき。彼の奥さんからメールが来て、”Jerry が心臓発作を起こした。生きられる確率は50/50″ と。それを見て、私はベッドから飛び起き、”ああ、大変だ…私たちはもう終わってしまうのか” と思ったよ。”全世界で最高の親友の一人がいなくなるのか?バンドができなくなるのか?私が持っているもの、私たちが持っているもの、すべてを失ってしまうのか?” とね。その時に書いたのが “Ain’t That The Truth” で、これはソロアルバムの “Naked” に収録された。1週間後くらいに書いたんだけど、1行目に50/50の可能性みたいなのがあって、すごく影響を受けたんだよね。それ以外は、KING’S X の終わりを意識することはないね。だから、考えたこともないんだと思う。すごい。そう考えると、ちょっとクレイジーだよね!」

2022年はバンドが1992年にリリースしたセルフタイトルのレコードから30周年にあたりました。
「まあ、Sam Taylor との最後のレコードだったわけで、それはそれで意味があった。それまでは、KING’S Xのサウンドを最大限に追求していたと思うんだ。最初の3枚は、インスピレーションを受けたものを何でも書いて、自分自身を見つけようとしていたし、自分自身のサウンドを見つけようとしていたから、いろんな意味で実験的だったと思うんだ。でも、4枚目のアルバムになると、ある程度定まってきたよね。曲作りに関して言えば、”The World Around Me” のような曲は、私が “バックス・バニーのリフ” と呼んでいるもので、ああいうカートゥーンのサウンドが好きなんだ。あのレコードが完成したとき、私たちは気に入っていたし、サウンド的にも良かったと思うんだけど、バンドにとってはひとつの終わりであり、ある種のサウンドの終わりでもあったんだ。Sam Taylor が抜けた後、次のアルバムは “Dogman” で、Brendan O’braien は “このアルバムに何を求めているんだ” と言ったんだ…”ライブで鳴っているような音を出したいんだ。ロックバンドのようなサウンドにしたいんだ” と答えたね。だから “Dogman” では、Brendan はすべてのレイヤーを取り払って、ただひたすらレコードを作らせてくれたんだ」
KING’S X はメジャーレーベルであるアトランティック・レコードから初めて作品をリリースしたバンドでもあります。
「我々はレコード会社からプレッシャーを感じたことはない。なぜなら、我々はレコード会社に “勝手にしろ” と言えるくらい反抗的だから (笑)。私たちはいつもそうだったんだ。アトランティックの子会社だったメガフォースに所属していたんだけど、”Over My Head” が出たときに、彼らが我々に電話してきて言ったんだ。”ラジオで流れてヒットしそうな曲を書くと、いつもその真ん中に何かを入れて、すべてを台無しにするのはなぜだ?”って。こう答えたよ。 “それが私たちの音楽の書き方だからな。ピクニックの真ん中に列車の事故を置いたり、その逆が好きなんだ” ってね。だから、私たちのことを説明したり、カテゴリーに入れたりするのは苦労したよ。ある時期、私たちは音楽業界の寵児で、誰もが私たちが大成することを応援していた。でも、要するに、世の中は茶色いコーラを飲み続けるということなんだ。透明なコーラの味がまったく同じであっても、未知の味に乗り換えることはないでしょう。茶色のコーラを飲み続けるんだ。私に言わせれば、何百万も売り上げているバンドのほとんどは、自分のやりたいことをやっていない。そのようなバンドは、もう一度、本当のことをやりたいと願っているんだ」

反抗的といえば、dUg はかつてキリスト教という “権威” にも牙を剥いています。”Let It Rain” の歌詞はまさにそんな dUg の心情を反映した楽曲。”世界の終わりか新しい始まりか?救世主は?神々は? 今こそ私たちを救ってはくれないのか? 誰もが権利を主張し誰もが戦いたがっている 誰もが自分を正当化して だから雨を降らせよう 恐れを洗い流すために”
「ゲイであることを公表したとき、ハードロック・コミュニティからの反発はなかったんだ。私は声明を出したり、プレス発表をしたことはなくてね。ただ、メジャーなクリスチャン雑誌のインタビューを受けたんだ。彼らが延々と話すから、私はただ思ったんだ。”クリスチャンの偽善にはうんざりだ。私はゲイだと言って、それで終わりにしよう” とね。
今日、それは問題ではない。誰からも反発されたこともないしね。ただし、あの記事が出たときは別だった。KING’S Xのレコードがキリスト教系の店で販売禁止になったんだ。その時、私たちは “素晴らしい!これでキリスト教の汚名から逃れられる”と思った。なぜか、KING’S Xはクリスチャン・バンドと思われていたからね。当時の私たちの信仰がそうだったからかもしれないけど、今はもう誰もそうではない。イエス・キリストは救世主ではないからね。70歳になったとき、世界を見渡してみたんだ。人々にはもっと思いやりと愛が必要だと思った。”雨を降らせて恐怖を洗い流せ” というのは、いい例えだよ。つまり、私たちが問題を抱えているのは、私たちが恐怖を恐れているから。立ち上がり、”怖がるのをやめよう!” と歌う、それが私の仕事なんだ」
しかし、dUg が3歳の時、連れ去られた宇宙人はキリストのようだったとも。
「3歳だって記憶しているのは、母がまだ一緒に住んでいたから。母は私が3歳のとき去ったからね。私が寝ていると、その人が部屋に入ってきたんだ。長いブロンドの髪の毛でローブを着て、それに銀色のベルトを巻いていた。すごく背が高かったのを覚えてる。足に巻き付けるサンダルを履いていたよ。裏口から外に出て、舞い上がったのを覚えてる。私は目が覚めたばかりだったが、外はとても明るかった。その時点で何かおかしいって思って、その人物から離れようとあばれたんだ。ようやく、彼は私の手を放した。次に覚えているのは、母の膝の上にいたこと。それって、ずっと、クレイジーで馬鹿げたことだと考えていた。でも40を過ぎたとき、”Ancient Aliens” を見ていて、わかったんだ。彼らは、人間がコミュニケーションを取ったり、拉致されたという4つのエイリアンのタイプについて話していた。その一つ、Nordic と呼ばれているエイリアンが、まさに彼だった。それまでは、夢を見てたんだって思ってた。でも、40年が経ち、理解したよ。私は拉致されたんだ」

宗教は dUg にとっていつしか虐待へと変わっていました。
「ゲイは忌み嫌われる存在で、神はそれを聖霊への冒涜以外の何ものでもないと嫌ってる。聖書によれば、男は他の男と寝てはならない。私はずっとそう言われてきたけど、でも同性愛者だ。
だから、誰にも言えなかったんだよ。ある時、”じゃあ、イエスがしたようにやってみよう” と決心したね。3日間断食して、自分を”ストレート”に変えてくれるよう神様にお願いしようと思ったんだ。田舎のトレーラーに座って、2日間断食して、食べずに水だけ飲んでたよ。祈って、祈って、泣いて、神が私を変えてくれるように懇願したけど、私は何も変化を感じなかった。そして、私は立ち止まって、”あきらめます” と言ったんだ。心の奥底にあったのは、人々が言う『神をあきらめるな』『神はまだ終わっていない』『神を待たねばならない』『神のタイミングで物事を得ることはできない』という聖句のことだった。だからその時は、何をやってもうまくいかないのは、すべて自分のせいだと思った。
ほら、私にとって宗教は抑圧的なものでしかなかったから。宗教は私に何もさせてくれなかった。4、5歳の頃、教会で曾祖母と一緒に最前列に座って、牧師が “踊ったり、酒を飲んだり、夕バコを吸ったりしたら、地獄に落ちるぞ。悪魔がお前を捕まえるぞ” と叫んでいるのを聞いたのを憶えている。悪魔がやってきて私を苦しめるんじゃないかと、子どもの私は毎晩死ぬほど怖くてベッドに入った。悪夢にうなされ、叫びながら目を覚ましたものだよ。
つまり私にとっては、宗教は虐待だった。他の人はそうではないし、私はそれでいいと思う。でも、私にとっては、そうなんだ。誰かが、”ああ、神はあなたを愛し、あなたの罪のために死んだ” と言ってきたら、心の中で “くたばれ” と言いたくなる。でもその代わりに、他のみんなにそうであってほしいと思うように、その人が誰で、何を信じているかを受け入れて、その人を愛するだけだよ。
私は、多くの、多くの、多くの、多くの、真の信者がいると信じているし、彼らを賞賛し、拍手を送るよ。だけどね、宗教でお金を要求する人たちはみんな、デタラメで、うそつきさ。彼らは、人からお金を搾り取る方法を見つけた、ナルシストの集団だ。私は彼らに嫌悪感を抱いている。そして、それを信じていた人たち、今も信じている人たちに対して、悲しみを覚えるんだ。嫌悪感ではなく、悲しみなんだよね。さらに悲しいことに、私は彼らが受け入れないようなタイプの人間だから、離れていなければならないんだよね。それが悲しいんだ。でも、それが人生なんだよね」

自身では、KING’S X のサウンドをどのように “カテゴライズ” しているのでしょうか?
「私たちはスリーピースのロック・バンド。ただそれだけだよ。パンクの曲も、ロックの曲も、ファンクの曲も、同じように演奏できるんだ。ドラム、ギター、ベースさえあれば、どんな曲でも演奏できる。私たちは本当に良いリズムセクションが根底にあって、それが KING’S Xのマジックだと思う。お互いのニュアンスの中で演奏する。音楽だけではなくてね。実際、KING’S Xは、私がこれまで演奏してきたバンドの中で唯一、みんながお互いの話をよく聞いているバンドなんだ。今まで一緒に演奏した他のバンドでは、周りを見渡すとみんな話を聞いていない。お互いの言うことを聞かないし、私の言うことも聞かない。でも私たちは皆、自分たちのやっていることに耳を傾けていて、その結果、違いを見分けることができるんだ」
最近では、”ロックは死んだ” というミームも使い古されてきたようです。
「ロックは死んでいない。ただ、怠け者が外に出て音楽を探さなくなっただけだ。GRETA VAN FLEETの曲は最低だけど、でも、ああした音楽を再現している子供たちがいる。20代の若者たちがサバスや BON JOVI を同時に吸収して、本物の何かを作り出しているんだ。問題は、それをやるための場所がないことだ。彼らを拾ってくれるレコード会社もない。MTVもない。新しいロックを聴かせるFMラジオもない。誰も彼らにチャンスを与えようとしないから、みんなツアーに出ている。そういうバンドを見に行くと、会場は満員になるんだけど、誰もそのことを知らない。”ロックは死んだ” 論者たちに言いたいのは、”おい、泣くなよ。彼らはそこにいるんだ。決して変わっていない。YouTube や Tik-Tok で見るような天才たちが素晴らしい音楽をやっているんだから、そこにいるんだよ” とね。私たちが子供だったころは、MTV はあったけど、Tik-Tok や YouTube がない時代だった。だから、まったく新しい世界、新しい世代の子供たちがいて、世界に対して違う見方をしていて、私が経験することのない違う経験をしている。才能はこれからも変わらず現れるだろう。ロックは決して止まらない」

dUg は世界的に名の知れたロックスターですが、決して裕福な暮らしを送っているわけではありません。
「金がなければサイドプロジェクトをやるだけだ。レコード契約を結んで、2、3ヶ月の間、支払いをするんだ。私たちは誰も9時から5時までの仕事には就いていない。でも、私たちにできることは何なのか。私たちは市場において価値があるから、クリニックとかそういうことができる。手書きの歌詞を作ることもできる。黒い紙に銀色のインクで書き出し、サインと日付を入れるんだ。何百枚も書いたよ…それでうまくいく。それに、この歳になると、ソーシャル・セキュリティーを受けることができる。3年ほど前に社会保障を受け始めたんだ。社会保険で家賃が払えるから、心配することはなくなった。それ以外のことは、自分でできる。街角でギターを弾けば、5ドルが手に入る。友だちに電話して、”お金がないんだ。今日、ご飯を食べさせてくれないか?” と言えば、OK! となる。それに、私にはシグネチャー・ペダルと、シグネチャー・ベースがあって、みんな買ってくれるんだ。だから、時々、6ヶ月分の小切手をもらって、助かっているよ」
ロックの精神は健在でも、同時代の多くのアーティストが降参したり撤退する中で、KING’S Xが長生きできたのはなぜでしょう?
「バカだからだよ (笑)。どんな困難にも負けず、自分たちのやるべきことをやり続けたし、今もそうだ。そして、ステージに上がると、世界に対して私たちが立ち向かうことになる。このバンドは誰も解散するつもりがない。私はこのバンドを辞めないし、Ty も Jerry も辞めない。誰も辞めないよ、だってバンドを解散させる責任を取るつもりはないんだから。私たちはそんなことするつもりはない。そんな愚かなことをするには私たちは優秀すぎるんだ。だから、誰かが死ぬしかないんだ、それでおしまい。この3人のいない KING’S Xは存在しない。それはあり得ないよ。もちろん、KING’S Xのトリビュート作品は常に存在しうるし、もし私が生きていれば、それに出演することもあるかもしれない。でも、私と Ty と Jerry のいない KING’S Xは存在しないだろうし、それは私の心の中で感じていることなんだ。他の人は違う意見を持っているかもしれないけど、これが私の気持ちなんだ」

参考文献: VW MUSIC:An Interview with dUg Pinnick of King’s X

DEFENDER OF THE FAITH:dUg Pinnick (King’s X) Interview

BLABBERMOUTH:DOUG PINNICK Says KING’S X Has ‘Never Been Profitable’: ‘We All Have To Do Outside Things To Make Ends Meet’