“I Personally Am Obsessed With Whatever That Magic Is That Makes Records “Classic”. So I Spent a Lot Of Time Over The Past Few Years Listening To All These Records That We Give This Honor And Taking In What They Had To Say.”
DISC REVIEW “Where we’ve been, where we go from here”
「レコードを “クラシック” にする魔法、それが何であれ、それに取り憑かれている。だから、ここ数年、僕たちはそうした “名盤” だと思えるレコードを聴き、そのレコードが語っていることを受け止めることに多くの時間を費やしてきた。僕にとって、これらの “名盤” たちに共通しているのは、彼らが何かを語っているということ。それが言葉であれ音楽的なものであれ、そこには目に見える即効性があった。”Pet Sounds” における即効性は、”OK Computer” における即効性とはまったく違うけれど、それでも僕の中では同じカテゴリーのものなんだ」
“friko4u”。みんなのためのFRIKO。それはシカゴのインディー・ロック・シーン、HalloGallo 集団から登場し、瞬く間に世界を席巻した FRIKO のインスタグラムにおけるハンドル・ネーム。FRIKO が何者であろうと、彼らの音楽は世界中から聴かれるために、つまり音楽ファンの喜びのために作られているのです。
そのために、FRIKO のフロントマン Niko Kapetan とドラマー Bailey Minzenberger は、THE BEACH BOYS から RADIOHEAD まで、自らが名盤と信じる作品を解析し、”目に見える即効性” という共通点へとたどりつきました。カラフルであろうと、難解であろうと、先鋭であろうと、名盤には必ずある種の即効性が存在する。そうして彼らは、その信念を自らのデビュー・フル “Where we’ve been, where we go from here” へと封じ込めました。
「シカゴのシーンがとにかくフレンドリーであるところだと思う。たとえば他の3つのバンドと一緒にライブをすると、みんなお互いのセットに残って見てくれる。みんなコラボレーションしたり、他のバンドで演奏したりする。シカゴは、LAやニューヨークのような他のアメリカの主要都市と違って、20代から30代前半の人たちが手頃な家賃で住めるということもあると思う。だから、ここでの生活をエキサイティングなものにしようとする若者がたくさんいるんだよ」
アルバムに込められた想い。それは、”私たちがいた場所、そしてここから進む場所”。シカゴのインディー・シーンは決してLAやNYCのように巨大ではありませんが、それを補ってありあまるほどのエナジーと優しさがありました。競争ではなく共闘。その寛容さが彼らを世界規模のバンドへと押し上げました。DINASOUR JR? ARCADE FIRE? THE CURE? レナード・コーエン?ショパンにワグナー?!比較されてもかまわない。彼らは “名盤” のタイムマシンでただ世界を笑顔にしたいだけなのです。
FRIKO のオフィシャル・サイトの URL は “whoisfriko.com”。そこには ARCTIC MONKEYS が2006年に発表したEP “Who the Fuck Are Arctic Monkeys” を彷彿とさせる不敵さがあります。きっとFRIKO って誰?の裏側には、誰だって構わない、私たちは私たちだという強い信念が存在するはずです。
「SQUID, BLACK MIDI, BLACK COUNTRY, NEW ROAD の大ファンなんだ。彼らは、私たちよりもっとヴィルトゥオーゾ的なミュージシャンだと思うし、だから技術的なレベルでは太刀打ちできないから、エモーショナルでタイトなソングライティングの面でアクセントをつけようとしているんだ (笑)。でも、そうした新しいエネルギーが再びロック・ミュージックに戻ってきているのを見るのは素晴らしいことだし、若い人たちにとってはエキサイティングなことだと思う」
そうして FRIKO は、ポスト・ロックやプログまで抱きしめた新たな英国ポスト・パンクの波とも共闘します。いや、それ以上に彼らの寛容さこそが、長年すれ違い続けたアメリカと英国のロックの架け橋なのかもしれません。なぜなら、そこには David Bowie や QUEEN、そして THE BEATLES の魂までもが息づいているのですから。FRIKO は誰?その質問にはこう答えるしかありません。大西洋を音楽でつなぐエキサイティングな時計の “振り子” だと。
今回弊誌では、FRIKO にインタビューを行うことができました。「僕は宮崎駿の映画で育った。ジブリ映画は、僕が書く音楽に、音楽以外のどの作品よりも影響を与えている。宮崎駿には、世界中の人々に通じる特別な何かがあるんだ」 どうぞ!!
FRIKO “WHERE WE’VE BEEN, WHERE WE GO FROM HERE” : 10/10
REMEMBERING VITALIJ KUPRIJ (ARTENSION, RING OF FIRE, TRANS-SIBERIAN ORCHESTRA)
“Knowledge, Experience, and Confidence Are The Tools That I Use To Improve Myself. Knowledge Is Something You Gain As You Do It. You Apply Your Knowledge And Get Experience Out Of It. Confidence Is Something You Need In Your Vision To Survive And To Defend Your Point Of View As An Artist. Otherwise You Are Just a Copy Machine Or a Shallow Artist.”
HIGH DEFINITION
ウクライナ系アメリカ人のマエストロ、Vitalij Kuprij が亡くなりました。享年49歳。Vitalij は、コンサートホールのグランド・ピアノでベートーヴェンの協奏曲第4番を弾くのも、アリーナでフル・ロック・バンドに囲まれてネオクラシカル・メタルを披露するのも、両方お手のものでした。
Vitalij はクラシック、メタル、どちらのジャンルにも精通しており、クラシックの楽曲を演奏するソロ・アルバムと、コルグのキーボードでロックするプログ・メタル ARTENSION や RING OF FIRE でも存在感を発揮。のちに、あの TRANS-SIBERIAN ORCHESTRA にも加わり、メタル世界にとって不可欠な存在となっていきました。ARTENSION のファーストは本当に斬新で、キャッチーで、変態で、あの時代に消えかけていたプログ・メタルの炎を再燃させてくれました。
特筆すべきは、彼が教育をしっかりと受けたプロのクラシック奏者だったことで、当時メタル世界の演奏者に彼のような背景を持つ人物はほとんどいませんでした。だからこそ斬新で、個性的な作曲術、特殊なミキシング、鍵盤を打ちのめすような演奏、強烈なアイデンティティまで愛されるようになりました。アルバムを聴けば、音を聞けば、クレジットを見るまでもなく彼だとわかる。
だからこそ、あまりに早すぎるのです。ただでさえ、メタル世界にカリスマ的キーボーディストはほとんど残されていませんし、新たに登場してもいません。Jens Johansson, Andre Anderson, Jordan Rudess, Derek Shrenian…残念ながら、明らかに両手に収まるほどの人数です。Vitalij がこれから残すはずだった音楽、育てるはずだった人たち…あまりにも大きな喪失です。せめて、彼の言葉、ストーリー、メソッドをここに残しておきましょう。音楽は永遠に消えませんが、物語は語り継がねば消えてしまうのですから。
ウクライナやソビエトでは、メタルを学ぶことも簡単ではありませんでした。
「徐々に学んで行ったよ。私の国では何でも手に入るわけではなかったからね。西洋のロックバンドのほとんどは、ずっと後になってから来るようになった。私の国にはロック文化がなかったんだ。 でも結局、兄が洋楽をたくさん集めていたので、それを聴いて自分の音楽スタイルを確立していったんだ」
コンクールで優勝した後、Vitalij はソビエトで国内ツアーを行いその後、スイスでさらに修行を積みました。
「バーゼル音楽院で4年間、全額奨学金をもらって勉強したよ。有名なオーストリアのピアニスト、ルドルフ・ブッフビンダーに師事してね。彼は西洋の演奏スタイルや規律について多くのことを教えてくれたんだ。私はロマン派的でロシア的な環境で育ったので、ブッフビンダーは西欧的な規律ある態度で私を磨いてくれたんだよ」
ARTENSION のギタリスト Roger Staffelbach に出会ったのもスイス留学中でした。
「Roger はもう25年来の友人だよ。夏の間、スイスの小さな町に住んでいたんだけど、そこにピアノ・バーがあって、よく通ってジャムっていたんだよ。そこに Roger が入ってきて、自己紹介してくれたんだ。私はドイツ語が話せなかったから、少し言葉の壁はあったけど、彼はキーボード奏者を探していてね。彼と私は意気投合し、一緒に演奏するようになった。月曜日から金曜日まで、私は電車で1時間のところにある音楽アカデミーで音楽を学び、金曜日の夜、電車で Roger の家に行き、週末は彼のガレージでリハーサルをした。 日曜の夜はまたアカデミーに戻る。
Roger と私は、さらに2人のスイス人奏者と素晴らしいインストゥルメンタル・カルテットを結成したんだ。ATLANTIS RISING という名前だった。私はネオクラシックの曲を書き始め、カセットテープを作るためにお金をつぎ込んだ。カセットテープを300本は作ったと思う。私たちはスカンクのように無一文で、CDを作りたいだけのハングリーな少年だった!」
このカセットの一つが、シュレッドの総本山、シュラプネル・レコードに届くことになりました。
「シュラプネルの Mike Varney が聴いてくれたよ。Roger と私は2人ともアメリカに行くことになった。Roger が西海岸にいる間に、私はカーティス音楽院のオーディションを受けるためにフィラデルフィアに行ってね。 オーディションの後、私は Roger のところへ飛んで行き、その後2人でカリフォルニアのノバトへ飛んで Mike に会ったんだ。当時、シュラプネルは、私たちがやっていることと似たような音楽をたくさんリリースしていたからね。そして彼らは私たちと契約し、それが ARTENSION となったんだ」
世界でも有数の難関音楽学校に入学し、ARTENSION を結成してファースト・アルバムをリリースし、翌年にはファースト・ソロ・アルバムをリリース。カーティスに通いながら、どのようにすべてのバランスをとっていたのでしょう。
「大きなキャリアを築くのは、2つの分野を情熱的にターゲットにすると難しい。でも、私はそれがどんなに難しいことであっても気にしなかった。学期を終えて、他の学生が休みに入っている間、私はピアノで作曲をし、自分が何を書いていたかを思い出す。そしてカリフォルニアに飛び、ARTENSION でレコーディングをし、また戻ってクラシックの勉強に戻る。カーティスは厳しい学校で、おそらく世界ナンバーワンだろうな。
ARTENSION だと、”Phoenix Rising” は素晴らしいと思うし、もちろん “Into the Eye of the Storm” は最も印象に残る作品だけど、私は “Forces of Nature” が本当に好きなんだ。新しいベーシストとドラマー (John Onder と Shane Gaalaas が加わって、また違った雰囲気になった」
バンドは2枚のスタジオ・アルバムと、日本で録音された2枚組の素晴らしいライヴ・アルバムをリリースしました。ただ、Vitalij が参加していない作品もあります。
「Mark と私はいくつかの点で誤解しあっていた。大げさなことではなく、私たちが同意できなかったことがあっただけなんだ。ARTENSION は、キャリアの始まりという点で、私の心に少しだけ近かったので、私は ARTENSION と自分の作品に集中し続ける一方で、Mark には他のプレイヤーと一緒にやるように伝えたんだ」
Vitalij のソロアルバムはほとんどがインストゥルメンタルで、ソロのための十分なスペースがあり、鍵盤を前面に出しています。ARTENSION はボーカルを起用していますが、RING OF FIRE ほど大人しくはありません。
「ソロ作は私がほとんどの曲を書いたので、常にキーボード中心だ。ボーカルを書く機会も模索していたけどね。ボーカルものでは、私が派手になるという点では限界があったかもしれないけれど、ソロ・アルバムを通してならそれができる。 アルバムが進むにつれて、バンド自体のパワーに集中するようになったから、私が目立つことは少なくなった。でも、どのアルバムにも必ず私らしさがあるよ。
それに、ARTENSION では John West の音域を知り、バンドのスタイルを知り、バンド内のプレイヤー同士の相性を知りながら書くことも意識した。RING OF FIRE でも同じだ。
今は、ただ書いて、とてもパワフルでエモーショナルな感じの音楽にしたいと思っている。より作曲に集中し、より成熟したレベルに持っていく。自分が経験したことから集めた知識をすべて活用し、特定のバンドやプロジェクトをターゲットにすることなく、淡々と書いている。私はただ自分の書いたものを捕らえ、保存し、発展させ、変化させ、また戻ってきたいだけなのだ。 音楽を書くことは、とにかく驚異的だ。とても無邪気なプロセスで、新しい情報が生まれるから大好きだ。 何もないところから始めて、音楽的でスピリチュアルな情報を得る」
例えば、RING OF FIRE アルバムの中を見ると、”All music written by Vitalij Kuprij” と書かれていますが、ギター、ベース、ドラムのパートも Vitalij が書いているのでしょうか?
「すべての曲、すべてのパートをキーボードで書いているよ。だから、ギター、ドラム、ベースがキーボードで演奏され、他のメンバーが何を演奏すべきかの明確な方向性を示しているんだ。 特に後期のアルバムでは、より考え抜かれたものになっている。即興的なものはなるべく省いて、自分自身に任せるようにしている。 だからレコーディングのためにメンバーが集まったときには、構造的にはかなり練られているんだ。
ただ、決まった公式があってはならないと考えている。何かを目指さなくてはならないが、物事は自然に起こるものだ。それがあなたなのだから」
TRANS-SIBERIAN ORCHESTRA での最初のツアーは2009年のイースト・ツアーでした。
「あれは完全に “青天の霹靂” 。ある朝起きてコーヒーを飲み、メールをチェックした。彼らのマネジメントから、Paul O’Neill と会うためにフロリダまで来てほしいというメールが来ていた。 彼らがどのようにして私のことを知ったのかはわからない。Paul が何でもできてフレキシブルなキーボーディストを探していたのは知っている。彼はレコード業界で一緒に仕事をしたことのある人に電話して、その人が私を推薦してくれたんだ。数週間後、私はそこにいた」
“Brave” は、実際に5人で書いた初めてのアルバムだったと Rothery は言います。
「コンセプト・アルバムであったからこそ、このアルバムは、私たちにとって、とても重要な作品となった。コンセプト・アルバムだったから、他のメンバーも私たちがやろうとしていることを理解しやすかった。私が思うに、今回はレコードを作るか、傑作を作るかのどちらかだ。だから、どうしてほしいか言ってくれとね。それでみんな、”傑作を作ろう” となった」
作業を進めるにつれて、曲は焦点が定まり始め、包括的なコンセプトも定まっていきました。橋の上の少女についての直接的な物語というよりは、彼女がそこにたどり着くまでの一連のスナップショット。さらに Hogarth によれば、歌詞の多くには自伝的な要素が薄っすらと隠されていたといいます。”Living With The Big Lie”, “Brave itself” そして特に “The Hollow Man”。
「私は動揺していた。外見はますますピカピカになり、ジャン・ポール・ゴルチエを身にまとっていた。小さな子供2人の父親でありながら、それに向いていない、そう感じていた。そのすべてのバランスを取りながら、バンドの運命を復活させるような素晴らしい作品を作り上げようとしたんだ」
すべての曲がコンセプトに合っていたわけではありません。”Paper Lies” の脈打つハード・ロックは、レーベルの強い要望でアルバムのムーディーな音楽の流れに刺激を与えるために収録されたもの。もともとは悪徳新聞王ロバート・マクスウェルの死にインスパイアされたもので、後付けで既存の物語に組み込んだに過ぎません。この曲の主題である、ヨットからの転落事故で謎の死を遂げたロバート・マクスウェルにちなんで、この曲は巨大な水しぶきで終わります。「この曲には VAN HALEN からの影響があるかもしれないね」
“完成したときでさえ、それが何なのかわからなかった” そう Hogarth は言います。
「ミックスを聴いて、とても緊張したのを覚えている。興奮すると同時に、”これは THE WHO の “Quadrophenia” か何かに似ている。みんなにどう評価されるかわからない” って思ったね」
地平線には他にも嵐が立ち込めていました。EMIは、MARILLION が “Brave” の制作に要した時間の長さに良い印象を抱いていませんでした。この 生々しい アルバムは、数ヶ月遅れで、しかも決して安くはなかったからです。Rothery は言います。
「その7ヶ月が終わるころには、レーベルとの関係には壁が立ちはだかっていた。素晴らしいレコードを作ったことが、この莫大な出費とレーベルとの関係の悪化を正当化できるほど成功することを願わなければならなかった」
EMIの失策。それはリスニング・パーティーで起こります。彼らは、さまざまなジャーナリストやラジオの重役を招待し、聴いているのが誰なのかを知らせないというやり方をとりました。
「あれはEMIの大失態だった。EMIは人々に PINK FLOYD の新しいアルバムだと思わせようとした。そうすれば、より多くの人がプレイバックを聴きに来てくれると思ったからだ」
しかし長い間、批評家の捌け口となってきたグループにとって、”Brave” は驚くほど好評でした。”Q” 誌は、このアルバムを “ダークで不可解” と絶賛。Hogarth はその表現にほほえみます。「私はそれが気に入った。褒め言葉だよ」
しかし、”ダークで不可解 “は、伝統的に商業的な成功とはイコールではありません。”Brave” は、ギリギリのところでUKトップ10に食い込みましたが、ファーストシングルの “The Hollow Man” は30位。続いてリリースされた軽快な “Alone Again In The Lap Of Luxury” はトップ50にすら入りませんでした。
ただ公平に見て、”Brave” のタイミングは最悪でした。”Brave” がリリースされたのは、ブリットポップ・ムーヴメントが花開き始めた頃。自殺願望のある少女をテーマにした70分のコンセプト・アルバムは、BLUR や OASIS の前では常に苦戦を強いられることになりました。
「即効性がないことはわかっていた。私たちはただ、人々がこのアルバムに一日の時間を与え、彼らの中で成長することを望んでいた」
ツアーでバンドはアルバムを最初から最後まで演奏し、Hogarth は Peter Gabriel 流に曲の登場人物を演じました。ある時は、髪をおさげにして口紅をつけ、女の子自身を演じます。これは意図的な挑戦でした。
「コンサート会場の雰囲気は、”クソッタレ、これは何だ?”という感じだった。アンコールで “Brave” 以外の曲を演奏したときは、まったく違うショーになった。人々が安堵のため息をついているのが体感できたよ」
ツアーもアルバムも、MARILLION のオーディエンスを増やす、あるいは維持することにはあまり貢献しませんでした。”Brave” のセールスは30万枚ほどで、今となっては良い数字ですが、5年前の “Seasons End” の半分以下だったのです。セールス的には、確かに以前より落ち込んでいました。
“Brave” が長引いたことと、明らかに成功しなかったことは、所属レーベルのトップも気づいていました。少なくとも次のアルバムではより速く仕事をすることを考えるべきだとバンドは認め、そのアルバム “Afraid Of Sunlight” は、”Brave” のちょうど1年後にリリースされました。しかし、すべては遅すぎました。彼らの予想通り、レーベルは間もなく彼らを切り捨てました。
「メディアから嫌われるバンドに戻ってしまった。メインストリームの音楽メディアを見る限り、私たちは生きる価値がなかった。いつも通りのね」
EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH AGNETE M. KIRKEVAAG OF MADDER MORTEM !!
“Globalisation Means a More Diverse Culture Generally, Which Also Goes For Metal. It’s Not Only a White Male 18-25 Scene Anymore, Which Suits Me Fine.”
DISC REVIEW “OLD EYES, NEW HEART”
「私たちはますます個人主義になり、自分の内面や感情に焦点を当てるようになっている。その良い面は、人々が自分の課題や悩みをより自由に共有できるようになったことだと思う。また、世界のグローバル化は多様な文化を促進し、それはメタルにも当てはまる。メタルシーンは18~25歳の白人男性だけのシーンではなくなっているの。私にとっては素敵なことだわ。みんな自分の経験を書く傾向があるからね」
ノルウェーのメタル・バンド、MADDER MORTEM とそのボーカル Agnete M. Kirkevaag のドキュメンタリーが話題を呼んでいます。彼女は、ステレオタイプなイメージに取り憑かれていたメタル世界で過食摂食障害と闘い、内なる悪魔と闘うために手術を受けることを決意します。新曲のレコーディング、ヨーロッパ・ツアー、オスロでの元メンバー全員によるライブなど、バンド結成20周年記念の年に撮影した本作は、そうしたバンドの日常を追いながら内なる悪魔、スカンジナビアの文化的規範、イメージに取り憑かれたメタル世界との齟齬と葛藤を巧みに描いていきます。
「私にとっては、ブラックメタルの音楽的アプローチの一部、特にダーティなサウンドと雰囲気が好きだった。でもね、シーンの半ファシズム的、人種差別的な側面は本当に好きではなかった。社会不安を抱えた18歳の男たちが自分たちのことを “エリート” だと言っていたのよ。バカらしく思えたわ。女性として、そのシーンには私が興味を持てるような部分はなかった。私が感じたところでは、自己主張の強い女性ミュージシャンが活躍できる場はほとんどなかったと思うわ」
“私たちは社会やメタル・エリートの中では負け犬かもしれない。でもね、負け犬は負け犬なりに吠えることができるのよ” はみ出し者にははみ出し者の意地がある。社会とも、メタルの伝統ともうまくやれなかった Agnete が、いかにして世界中のファンに届く感動的な音楽を生み出したのか。それはきっと、21世紀に花開いたメタルの多様性に対する寛容さ、そしてメタルに宿った “回復力” と密接に関係しているはずです。そう、もはやメタルは限られた “メタル・エリート” だけのものではないのですから。ドキュメンタリーのタイトルは “Howl of the Underdogs” “負け犬の遠吠え”。しかし、もはや彼女は負け犬ではありませんし、彼女の声は遠吠えでもありません。
「このアルバムは父に捧げられたものなんだよ。彼の思い出を称えるには、それが一番だと思った。彼はいつも私たちの活動を誇りに思ってくれていたし、このアルバムには彼のアートワークも入っているから、とてもしっくりきたの。でも、同じような喪失感を感じている人たちが、この音楽の中に慰めを見出すことができれば、それが最高の結果だと思う。だれかに理解されたと感じることが最高の慰めになることもある」
回復力といえば、喪失からの回復もメタルに与えられた光。MADDER MORTEM の中心人物 Agnete と BP 兄弟は多才な父を失い悲嘆に暮れましたが、その喪失感を最新作 “Old Eyes, New Heart” で埋めていきました。バンドのゴシック、ドゥーム、プログレッシブ、ポストメタル、アメリカーナとジャンルの垣根を取り払った “アート・メタル” は、あまりにも美しく、哀しく、そして優しい。そうして亡き父の描いた絵をアートワークに仰ぎながら、MADDER MORTEM は、同様に喪失感に溺れる人たちが、この音楽に慰めを、光を見出すことを祈るのです。
今回弊誌では、Agnete M. Kirkevaag にインタビューを行うことができました。「音楽は精神を高揚させ、慰める最も偉大なもののひとつであり、耐え難いことに耐えるための方法だと思う。そして願わくば、私たちの周りにある醜いものすべてに美を見出す方法でもあればいいわね」 どうぞ!!