COVER STORY 【ANGRA : ANGELS CRY】 30TH ANNIVERSARY !! TRIBUTE TO ANDRE MATOS…


COVER STORY : ANGRA “ANGELS CRY” 30TH ANNIVERSARY !!

“We Just Chose The Name Because It Was a Brazilian Name And There’s a Town Here Called Angra, Which Is a Beautiful Town. It Was a Name That We Thought Would Sound Good In Every Language, But, On The Other Hand, Would Also Mean Nothing. We Tried To Run Away From a Meaningful Name. We Discovered The Meaning Of The Word Later On, “Goddes Of Fire”, But I Think It Fits The Band’s Sound Well.”

ANGELS CRY

「ブラジルにアングラという美しい町がある。アングラ。どんな言語でも良い響きを持つ名前だと思ったが、一方で何の意味も持たない名前でもあった。私たちは意味のある名前から逃げようとした。言葉の意味は後でわかったんだ。火の女神。バンドのサウンドにはよく合っていると思う」
ANGRA。それはまさに、ブラジルから現れた情熱の炎のようなメタル・バンドにぴったりな名前でした。
もちろん、情熱的で画期的なヘヴィ・メタルを作る人は今もたくさんいますが、ネットやSNSの普及による情報過多で、特定のイメージを描写することばかりに気を取られているミュージシャンも少なくはありません。もしかしたら、そうした新たな” 文明の利器”は、いつしか大きな失敗や批判を恐れた野心、そして勇気の欠如を育み、純粋で、有機的で、正直で、”突飛” な音楽を生み出す土壌を汚染しているのかもしれませんね。
だからこそ、Andre Matos の逝去は、メタル世界にとって実に大きな喪失でした。偉大なシンガー/ソングライターを失っただけでなく、メタルを本当に愛し、心からのアイデアを具現化し、音楽的に常に挑戦しようとしていた人物を失ったのですから。

Matos は長年にわたり、彼が根っからのミュージシャンであり、イノベーターであることを証明し続けてきました。VIPER, ANGRA, SHAMAN, SYMFONIA, そしてソロ・プロジェクト。何かをするたびに、実験を試みながら、時の試練を乗り越える正直な音を届けてきたのですから。
Matos のキャリアと音楽的ヴィジョンを最もよく表しているアルバムは当然人それぞれでしょうが、今年30周年を迎えた”Angels Cry” は誰もが立ち返るアルバムでしょう。それは、このアルバムが多くの人にとって彼の音楽と ANGRA への入り口であっただけでなく、情熱的で、美しく、しかし突飛で、だからこそ正直だと感じられるからでしょう。
当時 Matos はクラシック音楽の勉強を終え、最初のバンド VIPER で2枚のアルバムを作った後に脱退。1991年に ANGRA を結成しました。彼はそもそもヴォーカリストになるつもりはありませんでしたが、状況が彼をそう導き、より熟達するために歌のレッスンを受け始めていました。
「ドラマーの交代は基本的にプロデューサーの決断だった。プロデューサーが僕らのところに来て、こう言ったんだ。”いいか、このアルバムで僕が望んでいることを、君のドラマーは残念ながら実現できそうにない。電子ドラムを使うか、私の知り合いで1週間でできる人を雇うかだ” とね。ドラマーは私たちの親友で、バンドの共同設立者の一人だったから、この決断はとてもとても難しかった。私たち全員がその場にいて、引き返すことはできなかったから、いずれかの選択肢を選ぶしかなかった」
“Angels Cry” のレコーディングはドイツ、特に Kai Hansen のスタジオで行われました。ボーカルとキーボードが Matos、ギターが Kiko Loureiro と Rafael Bittencourt、ベースが Luís Mariutti 。バンドの共同創設者で当時ドラマーだった Marco Antunes は、プロデューサーの Charlie Bauerfeind がパフォーマンスに満足しなかったため解雇され、後に RHAPSODY での活動で知られる Alex Holzworth がドラムスのレコーディングを行いました。

「このアルバムは簡単には生まれなかった。私たちは経験が浅く、とても若かったから。そして突然、当時パワー・メタルの中心地であり、あらゆることが起こっていたドイツに飛ぶことになった。そこで突然、最高のプロデューサーたちと仕事をすることになった。おかしなことに、私たちは、彼らにもあまり馴染みのない種類の音楽を持ってきた。私たちはヨーロッパのパワー・メタル・バンドではなかったから、クラシックの影響もあった。ブラジルの影響もあったし、カリブのリズムもあった。
“Angels Cry” のレコーディングは、亡命のようなものだとよく言っていたんだ。アルバムが最終的な形になるまで、私たちは何カ月もそこにいた。そして、ちょっと不気味でもあった。私にとっては初めてのドイツだった。その後、何度も何度もドイツに戻り、しばらく住んでいたこともあるし、素晴らしい国、完璧な国だと思うけど。
ハンブルグにある Kai Hansen のスタジオ、ガンマ・レイ・スタジオでこのアルバムをレコーディングしていたんだ。そのスタジオは第二次世界大戦時の地下壕の中にあったんだ。窓もなく、空気もなく、光もなかった。だから、ドイツで作った最初のアルバムは奇妙な雰囲気だった。また、レコーディング中に急遽別のドラマーを立てなければならなくなった。だから、私たちにとってはヘヴィな時期だった。そこから学んだことがあるとすれば、プロフェッショナルであること、忍耐強くあること、そして私たちを試練に陥れたすべてのことに耐えることだった」

実際、ANGRA はこのドイツでの滞在で、かけがえのない人たちと出会いました。
「Sascha Paeth と出会った日のことは、はっきりと覚えている。当時、私たちにはリム・シュノールというドイツ人のマネージャーがいて、彼がレコーディングの予算や全体を取りまとめていた。で、彼のつてでレコーディングのために突然ドイツに移されたけど、あまり快適な生活ではなかったんだ。家具はすべて60年代か70年代のもので、ペンションのオーナーは第二次世界大戦を生き延びた老婦人。彼女の夫も戦争で負傷したためそこに住んでいた。部屋の窓を開けると家の裏庭が見えたんだ。小さな裏庭だったんだけど、いくつか檻があって、鳩を飼っていたんだよ。
Sascha と Charlie Bauerfeind は当時のメインプロデューサーだった。Sascha は Charlie のアシスタントだったけど、彼はいつものようにアルバムの多くを手がけていて忙しくてね。そしてとても不思議なことに、Sascha とはお互いに会ったとき、もうずっと友達のような気がしたんだ。
それから私たちのキャリアと人生はいつもどこか一致していたし、一緒に多くのことをやってきた。”Angels Cry” のレコーディングやその全過程で、彼は私の最大の友人だった。彼は、私が自由な時間を過ごすときによく音楽の話をしていたし、当時からすでに、いつか一緒に何かプロジェクトをやろうというアイデアを持っていた。だから、彼は音楽における大親友の一人だよ」
GAMMA RAY の Kai Hansen と Dirk Schlächter もアルバムに参加しました。
「いつも通りかかって、スタジオで何かしているのをよく見かけたよ。もちろん、彼らは私にとってのアイドルだった。私は恥ずかしがり屋だった。彼らに敬意を表して、”おはよう” とか言う勇気もなかった。でもそのうちに、彼らは本当にコミュニケーション能力の高い、いい人だということが分かってきて、突然アルバムにも参加してくれるようになったんだ」

資金に余裕がなかったため、彼らはドイツのスタジオで大半の時間を費やしました。4人のブラジル人が、慣れないとても寒い気候の中、理解できない言語を話す国で。それは彼らの多くにとって初めての海外経験で、そうした逆境に対する反発力、野心、闘争心、そしてエネルギーがすべてアルバムに伝わったようにも思えます。
「SEPULTURA は、国際的にブレイクした最初のブラジルのメタル・バンドだ。ブラジルのバンドに何ができるかを世界に示した。私は彼らをとても尊敬している。彼らがやったことはとても重要だ。時々、ANGRA は SEPULTURA の真似をしたと言われる。だけど、音楽的にもコンセプト的にも、僕たちはほとんど関係ないと思う。同時期にトラディショナルな音楽の流行があり、多くの人が同じことをやっていた。でも、彼らの姿勢や音楽は好きだ。ブラジルから SEPULTURA のようなバンドが出てきたことを誇りに思う」
パワー・メタルは間もなくヨーロッパで大流行することになりますが、1993年のその時点ではまだ爆発的な人気はなく、ANGRAはHELLOWEEN、GAMMA RAY、BLIND GUARDIAN, HAMMERFALL, RHAPSODY らとともに、メタルの停滞を変える代表的なグループのひとつとなるはずでした。同時に、彼らの同胞であるスラッシュ・メタル・バンド、SEPULTURA が世界中で大ブレイクを果たした時期でもありましたが、ANGRA は特定のトレンドに追随することなく、自分たちらしくありたいと決意していたのです。
「アメリカではアルバムをリリースするのも、演奏するのも難しいんだ。ヨーロッパや日本では何の問題もない。彼らにはヘヴィ・メタルの伝統と文化がある。アメリカはとてもトレンドに敏感で、MTVが流しているようなものを好む。そこで活動する機会がないのは残念だ。メタルが好きな人たちが好きなバンドを見る機会がないのは残念だ」

自分らしさを貫くという部分は特に重要で、それがパワー・メタルの中でさえ、ANGRA に非常に際立った個性を与えていました。シューベルトの “未完成” に着想を得たイントロの “Unfinished Allegro” を聴くだけで、Matos がクラシックに深く影響を受けていることが伝わりますし、こうした幕開けはバンドにある種の洗練と風趣を与えています。そうしてこのイントロは、ANGRAの最高傑作であり最も人気のある曲のひとつである “Carry On” ではじけるまで、上昇気流を高めながら、ひたすら期待を煽ります。
そう、”Carry On”。Matos のクリスタルのような歌声と不自然なファルセット。ギターのファストで入り組んだ力強いリフと鳴り響く流麗なるストリングス。巧妙なベースソロと突拍子もない時代錯誤なシンセサイザー。そうした未曾有のコントラストこそが、ANGRAの証。高揚感のある力強いメタルと突拍子もないアイデアを、これほど見事にマリアージュさせた楽曲が他にあるでしょうか。そして訪れるクライマックス、ダイナミックな転調からの Matos の絶唱。
目眩く ANGRA 劇場の後、まるでブラジル人たちは一息ついているかのように、”Time” をゆるやかに始めます。冒頭のアコースティック・ギターのクラシカルでメロディアスなスタイル、Matos の外連見なく純粋な歌声、そして中盤に訪れるアルバム中最もエピカルなリフ・ワーク。彼らは20代にして、全盛期の GENESIS をメタルで再現する術を知っていました。続く “Stand Away” の早すぎたメタル・オペラも絶品。
クラシックからの巧みな引用もまた、”Angels Cry” を独特な作品に昇華していました。パガニーニによるカプリース24番を織り込んだタイトル曲は、絶え間ないリズム・チェンジと、あらゆるひねりに場面と発想の転換が見事に機能しています。一方で、ヴィヴァルディの冬を引用した “Evil Warning” では、よりドラマティックに、ロマンティックにスピードでリスナーの胸をしめつけることに成功しています。

また、”Never Understand” は、ブラジル音楽やカリビアンの影響を受けたアコースティックとベースの見事なコンビネーションから始まり、徐々に激しさを増していきます。この実験的な試みは、バンドが後に続く “Holy Land” で展開し結実することになりますが、圧巻なのはジャーマン・メタルが総力を上げて送るラストのギター・ソロ駅伝。
「”Holy Land” は一種のコンセプト・アルバムだから “Angels Cry” とはまったく違う。”Holy Land” が全体として良いのに対して、”Angels Cry” は個々の曲のレベルで良いんだよな。
もともとのコンセプトは “Holy Land” という曲から生まれたんだ。この曲は私がひとりで書いて、バンドに提示したんだよ。すると、バンド全体が同じような雰囲気になり、ブラジルのことや文化、人種、宗教の混ざり合いなどについて話すようになった。この曲から全体のコンセプトが生まれたんだ。”Holy Land” は、国そのものについてではなく、文化について、文化における人種の混ざり合いについて歌っているんだ」
そして何より、”Wuthering Heights” です。ケイト・ブッシュのカヴァーを男性の、しかもメタル・シンガーが歌うという、どう考えても突拍子もないアイデアをやり抜き名曲に仕立て上げる ANGRA の反骨心は、ここに極まります。ANGRA の楽曲と言われても違和感のないほどに、ここにある創造力は豊かです。
“Angels Cry” は、パワー・メタル、いや、RAGE や BLIND GUARDIAN のようなあの時代に “挑戦” を恐れなかったジャーマン・メタルの傑作として評価されてしかるべき作品で、同時に自分を心から信じ、やり抜くことの重要さを今でも伝えてくれます。
「できる限り成長し、ミュージシャンとしてもっともっと向上し、より高いプロフェッショナルなレベルに到達したい。ブラジルでプロのバンドになるのは難しい。ブラジルという国には、あまり可能性がないんだ。その一方で、私たちは多くの時間を外、特にヨーロッパで過ごした。このような外部市場を持つことはバンドにとって重要だ。さまざまな市場、さまざまな国で活動し、自分たちの好きな音楽をやっていきたい。それが私たちの最大の夢だ。レコード会社の意向を無視して、自分たちのやりたいことだけをやる必要はないよ。でもね、より多くのお金を稼ぐためだけに、反復的で退屈なものになりたくない」


“自分のやり方をつらぬけば 見つけられるだろう
未知なる才能が輝く道を
必要なのは君のプライド、それだけだ”
人生には意味がある…Andre Matos 死すとも、彼の美しき情熱の炎は消えず、こうして受け継がれていくのです。


参考文献: INTERVIEW WITH ANGRE MATOS

METAL MELT DOWN: INTERVIEW WITH ANDRE MATOS

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