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NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【EIGENFLAME : PATHWAY TO A NEW WORLD】


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH FERNANDES BONIFACIO OF EIGENFLAME !!

“Angra Was In Fact The Band That Most Influenced Me As a Musician, In Terms Of The Musical Direction I Followed, But On The Other Hand, At No Point Did We Intend To Try To Sound Like Angra”

DISC REVIEW “PATHWAY TO A NEW WORLD”

「ANGRAはミュージシャンとして、僕が辿った音楽の方向性という点で、最も影響を受けたバンドだったから。ただ一方で、ANGRA のようなサウンドを目指したことは一度もないよ。僕らの音楽に対する彼らの影響はとても強いけれど、彼らのやっていたことはユニークだったし、僕らもまた、大多数のパワー・メタル・バンドとは違うサウンドを出そうとしている。簡単なことではないが、努力しているよ」
ちょうど30年前。ANGRA の登場は二重の驚きでした。まずは、クラシックを大々的に取り入れた美しくも壮大でウルトラ・テクニカルなそのパワー・メタルに。そして、ブラジルというメタル第三世界から遣わされた天使である事実に。
時代は流れ、かつて ANGRA が証明したメタルの多様性や感染力は、今や当たり前のものとして受け入れられています。インドやアフリカ、そしてここ日本でも、世界で戦えるバンドが続々と登場しているのですから。そんなメタル世界の総復習、総決算として、再度感染源のブラジルから EIGENFLAME が登場したのはある意味宿命だったのでしょうか。
「ボサノヴァやサンバについては、絶対にないだろうね (笑)。でも、僕らのファースト・アルバムにはブラジル音楽や先住民音楽の要素が控えめに入っているし、バンドが活動し続ける限り、こうした要素はおそらく僕らの曲の一部になるだろうね」
ANGRA が後に再度世界を驚かせたのは、サンバやボサノヴァといったブラジルの代名詞に加えて、ブラジル先住民族の響きをメタルに溶け合わせた点でしょう。”Holy Land” はそこに、”Angels Cry” から引き継いだ流麗壮大なクラシックのシンフォニーまで未だ存分に残していたのですから、まさにメタル多様性の原点の一つであったにちがいありません。そうして、EIGENFLAME もその偉大な足跡を、自らのやり方で推し進めていきます。まさに EIGENFLAME。自分自身の炎。
「一番好きなアルバムは “Rebirth” と “Temple Of Shadows” だろうな。だから Andre が大好きで、”Holy Land” や “Angels Cry” のようなアルバムを愛しているにもかかわらず、バンドの時期を選ぶとしたら、Edu Falaschi がいた時期 になるだろうな」
EIGENFLAME のギタリスト Fernandes Bonifacio が、Andre Matos への敬意を表紙ながらも、Edu Falaschi 時代をフェイバリットに挙げる理由。それは彼らの音を聴けば理解できるでしょう。まさにあの傑作 “Temple of Shadows” を現代にアップデートしたかのような、ウルトラ・テクニカルでウルトラ・プログレッシブなメタル十字軍。
初期の ANGRA にあった、良い意味での “遊び” が排除された宗教画のような荘厳のモザイクは、明らかに EIGENFLAME が受け継いでいます。そうして、一片の曇りもなく天上まで歌い上げる Roberto Indio の迷いなき、揺るぎなき歌声。そこに加わる DRAGONFORCE や KAMELOT のパワー・メタル・カーニバル。ここには、我々が求めるカタルシスがすべて存在します。
「僕たちが経験したあの困難な時期にみんなが望んでいたことを表現するには、とてもいい名前だと思ったんだ。”Pathway To A New World” はコンセプト・アルバムではないけれど、ある意味、曲と曲がつながっている。宇宙、自然、スピリチュアルなエネルギーといったトピックを取り上げているんだよ。”つながる” ことがテーマなんだ。アルバムのアートは “Way Back Home” という曲に基づいている。この曲は、部族を探して放浪していた先住民の戦士が、新しい世界への道を見つける姿を描いているんだ」
ドラマーの Jean は2023年の EDU FALASCHI と NORTHTALE の来日公演にも参加していましたね。新たな未来へ、つながっていきましょう。Fernandes Bonifacio です。どうぞ!!

EIGENFLAME “PATHWAY TO A NEW WORLD” : 10/10

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COVER STORY + NEW DISC REVIEW 【BRUCE DICKINSON : THE MANDRAKE PROJECT】


COVER STORY : BRUCE DICKINSON “THE MANDRAKE PROJECT

“I Try To Be More In Control And Analytical When I’m Fencing, Which Is Not Really 100 Percent My Nature, But In Music I Can Be The Opposite – I Can Be The Creative.”

THE MANDRAKE PROJECT


「何年も前にリリースされるべきだったのだけど、このプロジェクトがより強く、より大きくなったので、遅れたことを喜んでさえいる」
Bruce Dickinson 65歳。世界最大のヘヴィ・メタル・バンド IRON MAIDEN のボーカリストにして、マーケティング・ディレクター、ビジネスマン、コマーシャル・パイロット、DJ、脚本家、作家、音楽の博士号、歴史教授、サラエボの名誉市民、フェンシングの達人、英国空軍名誉中隊賞など100の顔を持つ才能の塊であり、癌サバイバーでもあります。まさにメタルの回復力。
“1843” 誌は、ビジネス、文化、人間性、そして何よりも国際的に傑出したさまざまな著名人の知識に関する世界規模の調査を実施し、彼らは Bruce を正しく定義できる言葉は “ポリマス(polymath)” “博学者” であると結論づけました。この言葉は、例えばレオナルド・ダ・ビンチのように人生を通してさまざまな分野で広範な情報を持っている人物を指します。そして、間違いなく、Bruce とポリマスは特別な関係にあるのです。
そんな Bruce が話しているのは、2024年、ついに世に送り出された全く新しいソロ・アルバム “The Mandrake Project” のこと。当初は10年前にリリースされる予定でしたが、咽頭癌の診断がその計画を頓挫させ、回復後はIRON MAIDEN のワールドツアーが続き、そして “世界が突然奇妙な病気にかかり、我々は全員閉じ込められてしまった” のです。
しかし、彼の副業と本業に偶然の隙間ができたことで、2005年のLP “Tyranny Of Souls” からギタリストの Roy Z、ドラマーの Dave Moreno、天才キーボード奏者 Maestro Mistheria とタッグを組んで、7枚目のソロ・アルバムに取り組む時間ができました。

Bruce は The Mandrake Project を IRON MAIDEN の作品と比較して “とても個人的な旅” だと語っています。
「まず第一に、より長いプロセスだ。このアルバムは、何層にも重なったロックを通して浸透していったんだ。ある曲は一度に浮かび上がり、ある曲は時間がかかり、ある曲は20年前から掘り出した。素晴らしいのは、それらがすべてフィットしていることだ。サウンド的にはすべてフィットしている。どれも明らかに私が作ったか、私が貢献している。Roy とのコラボレーションもかなりあるし、ギターも何もかも完全に一人で書いた風変わりなものもある。まあ俺は、”Powerslave” や “Revelations”, “Flash Of The Blade” も完全にひとりで作ったんだがね」
とはいえ、明らかに IRON MAIDEN のクラシックなサウンドとは全く異なります。
「ヘヴィ・ロック・アルバムだけど、ニッチに収まらなければならないという制約はないんだ。ここには、好きなだけヘヴィになる自由があるし、様々な方法でヘヴィになる自由もある。5分しかないからどうする?みたいな制約もない。このアルバムには、理由もなくそこにあるものは何もない。他の曲と調和しているからそこにあるんだ。それはとても珍しいことだ。どのアルバムを作っても、2、3曲は “ああ、この曲はちょっと違うな” っていう曲があるんだ。でも、このアルバムには、聴いて好きにならない曲はひとつもない。
“The Number Of the Beast” だってそうじゃなかった。あのアルバムには名曲がたくさんあるけど、”Invaders” とかについてはいつも “うーん…” って感じだったからね。でも、他の曲は本当に素晴らしいから、そんなことは忘れてしまうんだ。
ほとんどの人は、俺の最高傑作は “The Chemical Wedding” だと言うだろうし、もっとストレートなメタルが好きなら “Accident Of Birth” もいい。それから、”Skunkworks” は本当にめちゃくちゃ良い、良すぎるという人も時々いる。”Skunkworks” は実際、かなり良かったけど、当時の人々の感覚からすると、それはとても大きな変化だった。多くの人たちは、メイデンがメイデンであることを評価していたけど、だからといって他のすべてがメイデンのようである必要はない。この15年で本当に変わった。より多くの人たちが、音楽に関してより既成概念にとらわれない考え方をするようになった。まあだから、一方で彼らは物事にうるさく、プレイリストを作り、アルバム全体を聴くことはめったにない。このアルバムがその例外になることを願っているんだ」
Rob Halford の FIGHT と、SKUNKWORKS はほぼ同時期に行われたメタルの異端審問会でした。
「結局みんな同じ穴のムジナなんだ。Rob は FIGHT をやったし、俺は SKUNKWORKS をやった。どちらもクールなプロジェクトだった。どちらもうまくいかなかったけど、クールなものがあった。つまり、SKUNKWORKS でたくさんのことを学んだし、それは自分でやってみて見つけるしかない。歌詞の書き方の違い、歌のアプローチの違い。邪悪で、グランジで、メタルの終焉だ!なんて言われたけどね。頼むから消えてくれ!これは音楽だ!SKUNKWORKSの後、俺はとても落ち込んでいた。もう消えてあきらめようかと思った。棚を積み上げる仕事に就くとか、民間航空会社のパイロットになるとか、本気で考えていた。自分には、誰も興味を持ってくれるような何かが残っているのかどうか、わからなかったんだ。そこに Roy が現れた」

IRON MAIDEN の作品とは異なり、Bruce Dickinson のソロ・アルバムでは、エンニオ・モリコーネを呼び起こしたり、ボンゴを叩きまくったり、ベートーヴェンにインスパイアされた10分に及ぶアンビエント曲を聴くことができます。Bruce の違った一面を垣間見る喜びは、メイデンのギグでアドレナリンがほとばしるのとは違う、より繊細で複雑なもの。つまり “ポリマス” なアルバム。
「”Sonata (Immortal Beloved)” はもう25年も前の曲だ。ゲイリー・オールドマンがベートーヴェンを演じた “Immortal Beloved” を観た後、Roy は映画から遅く帰ってきて、この10分のアンビエント・サウンドトラックを作ったんだ。ギターとシンセのベッドにドラムマシンが入っていて、大きなドラムフィルも何もなく、ドラムマシンだけが変化する。”眠れる森の美女” のひねったバージョンなんだ。王女ではなく、女王が登場する。ちょっと待てよ、”Taking The Queen” (1997年の “Accident Of Birth” 収録)の女王じゃないかと思ったんだ。”Taking The Queen” で女王は死んだ。今、彼女は死んでいて、従者たちがまだ彼女の周りにいて、彼女を見ている。そして暗い森から王がやってくる。王だ。王が暗い森から出てくる。なぜ?彼女を愛しているから?ああ、そうかもしれないが、それ以上に、彼は彼女が必要なのだ。彼女がいなければ、彼はもう王ではないからだ。その話はすぐに思いついた。楽曲の話し言葉はすべてその場で作られたもので、オリジナルのパフォーマンスなんだよ。
あまりに違う曲だったから、どうしたらいいかわからなかったんだ。そしてついに、妻が車の中で聴いていたんだ。彼女は “最高に美しいわ” と言った。彼女は泣きそうになって、とても感動し、”アルバムに収録されなかったら離婚する” って言うんだ。だからアルバムに入れたんだ。
“Fingers In The Wounds” を作ったとき、Mistheria がキーボードを送ってきてくれて、すべてが変わった。大きくて瑞々しいキーボードの曲から、まばらなキーボード、ビッグなロックのコーラス、そしてモロッコに入り、カシミールかどこかに行く。モロッコじゃないのは明らかだけど、ツェッペリンの影響という意味では “Kasymir” だね。何かリズミカルで奇妙で、完全にレフトフィールドだった。アルバムの中にもそういう瞬間がいくつかある。
“Resurrection Men” は Roy に言ったんだ。”スパゲッティ・ウエスタンから飛び出してきたようなギターのイントロにしたい” って。サーフ・ギターみたいな感じで。それができた途端、”自分たちがクエンティン・タランティーノだと想像してみよう。クエンティン・タランティーノなら次に何をするだろうか?答え:ボンゴ。ボンゴに決まってる!” というわけで、ボンゴの演奏デビューした。テクニックがないから凄く痛かったよ。
“Eternity Has Failed” もそう。本当は、エンニオ・モリコーネのような雰囲気のある本物のマリアッチ・トランペットが欲しかったんだ。シェイカーとガラガラヘビをバックにね。マリアッチ・トランペットを手に入れるところまではいかなかったが、ロイはフルートで同等のことをするペルー人のフルート奏者を見つけたんだ」

The Mandrake Project にとって、”旅” いう言葉は重要です。このアルバムは物語の円環。ネクロポリス博士やラザロ教授のような彼自身が創作したキャラクターや、怪しげな悪役プロジェクトの卑劣な所業が詳細に描かれた、ねじれたオカルトとSFの融合したストーリー。
「コミックとメタルが関係あるべきものであることは、以前から明白だった」
ただし、この世界観はオーディオだけにとどまりません。The Mandrake Project は音楽以上のもの。3年にわたる創作活動で、12冊のコミックに渡って物語を広げています。Bruce は、IRON MAIDEN が同名のビデオゲームと連動してリリースしたコミック “レガシー・オブ・ザ・ビースト” には少し失望したと認めています。
「グラフィックは素晴らしかったけど、そこに本当のストーリーはなかった。でも、そのとき思ったんだ。俺がアルバムを作ったら、アルバムと一緒にコミックも作れるかもしれない。よし、じゃあストーリーを考えよう……」。
IRON MAIDEN の “The Writing On The Wall” の壮大なバイカー・ビデオで初めて絵コンテに挑戦した Bruce は、次のステップに進み、音楽とは別の才能を具体的で大きなものにできたのです。
The Mandrake Project のコミックは、ブラジルのサンパウロで開催されたCCXPコミック・コンベンションで発表されました。このサーガは、薬物を摂取し、オカルトに取り憑かれ、入れ墨をした20代の科学者、ネクロポリス博士を中心に展開します。ネクロポリス博士は、極秘プロジェクト Mandrake で、瀕死の金持ちから魂を採取し、新しい健康な肉体に戻すまで保存しようと試みます。
Bruce はコミコンの主賓として、リード・シングル “Afterglow Of Ragnarok” の長編ビデオを満員の観衆の前で初公開します。ラグナロクとは本来、北欧神話の数々の戦い、自然災害、そしてオーディン、ソー、ロキといった神々の死による世界の終焉のこと。しかし、Bruce が興味を持ったのは、凍てつくようなハルマゲドンではなく、浄化と贖罪の物語で、”太陽が再び昇る” その後に起こることでした。
「この世の終わりではなく、ただ今の世の終わりなだけなんだ。ラグナロクの物語でさえ、”よし、世界は滅び、ビフレストは消え、神々と人間の結びつきは砕け散り、世界の終わり、大洪水……さあ次を始めよう” という楽観主義を持っているんだよ」

これまでに存在したあらゆる常識の破壊は曲作りのための肥沃な土台。The Mandrake Project は、鮮やかで絶えることのない想像力から生まれた、さらなる物語や情景で溢れています。例えば、”Many Doors To Hell” は、ただ死にたいと願う女性ヴァンパイアの話。
「何が何でも人間に戻りたい。どうでもいい、永遠に生きたくない、こんなクソみたいなことはもうたくさんだ。永遠の命がありながら、永遠の死もある。何世紀も生きるより、現実に生きる方がいい」
“Rain On The Graves” は、ブルースが死者と一緒に過ごした経験から生まれた曲です。
「この曲、あるいはその一部を書いたのは墓場だった。湖水地方にあるワーズワースの墓の前に立っていたんだ。教会のそばに立っていて、そこに彼の墓があったんだけど、霧雨が降っていて、灰色だった。墓の上に雨が降っていたんだ。これが何なのかわからないけど、これは一瞬の出来事で、続きを書いたら何なのかわかるだろう…って思ったんだ。
それがたぶん2008年かそのくらいのことだった。引き出しの中に、歌詞の断片や、いつかは表に出てくるようなものばかりが散らばっていたんだ。墓場で悪魔に出会った男の話なんだけど、悪魔が “何のためにここにいるんだ” と言うんだ。なぜ俺たちは墓地に入るのか?何を探しているのか?墓地には死人がたくさんいるのに!でも、俺たちは墓地に入ることで、何か不気味なものを感じたり、インスピレーションを得たりすることがあるんだよ」
詩人ワーズワースの墓を訪ねたとき、何を探していたのでしょう?
「わからない。あれだけ伝説的な存在でありながら、ただ土の中に埋もれていることについて、ある種のメランコリーを感じたんだ。あれほど素晴らしい詩を作った人が、今はただの四角い岩になっているのは皮肉なものだ。そして、俺はそれを物語に変えていくことにした。俺と悪魔の会話から、とてもクールな言葉が生まれたんだ。その中に “祭壇や司祭ではなく、詩人の前にひざまずく” というセリフがあるんだけど、これは俺のことなんだよ!俺は墓石からインスピレーションを得ようとしているんだ。それがアーティストのすることだ。アーティストはすべてから盗み、あらゆるところからインスピレーションを得る。それが見つからなければ、墓地に座って誰かの死霊を借りればいい(笑)」
死、神々、死後の世界、そして究極の終末への言及は、レコードのあちこちに散りばめられています。”Resurrection Men” は、その解決策を提示します。世界中のハイテク億万長者たちが、飢えた人々や病人、ホームレスを助ける代わりに、永遠の命にお金を浪費する話。
「この歌は人間の魂を取り出し、それを保存することについて歌っている。死ぬ瞬間にスラブの上にいなければ手遅れだ。それは一瞬のことであり、魂を収穫するためにはそこにいなければならない。もちろん、永遠に生きるというアイデアには、人々は大金を払うだろう」

死といえば、1994年12月14日、Bruce は人生で最も危険なライブを行いました。ボスニア・ヘルツェゴビナ独立直後の首都サラエボは、1992年2月にセルビア軍に包囲されていました。それは4年近く続く戦争で、第二次世界大戦の悪名高いスターリングラード包囲戦よりも3年長く、約14,000人(その多くは民間人)の死者を出した地獄、ジェノサイド。
こうした状況の中、文字通り地球上から街を消し去ろうとする殺戮者によって砲撃されている街で、Bruce は街の中心部にある小さな会場のステージに立ち、4つの不滅の言葉を叫びました。”Scream For Me, Sarajevo!” “俺のために叫べ、サラエボ!”。
それから30年経った今でも、Bruce はあの夜の反応に驚かされ続けています。
「すべてサラエボの人々のためだったんだ。俺がいたのは数日間だった。でも、あのギグでのリアクションは他に類を見ないものだった」
Bruce は知りませんでしたが、そのライブはファンによって撮影されており、さらに驚いたことに、その場にいたファンたちは、それから数年後、そのライヴと、その場にいた人々を記録した映画 “Scream For Me Sarajevo” の制作に取りかかったのです。この映画は、音楽がどんなに耐え難い状況にも入り込み、力を与えることができることを証明しました。
「それから俺の人生は変わった。テレビのニュースを見て、今も同じような境遇にいる人たちを見て、俺も同じような境遇にいたことがある。わかるよって思うね」
それは Bruce の人生を変えることになったギグとなりましたが、それでも彼の人生における膨大なギグのうちの一つに過ぎません。彼はこの40年間、文字通り何千ものギグ、途方もない旅、歴史を刻んできました。そう、Bruce が愛してやまない “歴史”を。

Bruce が15歳か16歳の頃、彼の関心は演劇に向けられていました。そのため、彼はこの芸術についてもう少し学ぼうと、学校のアマチュア劇作家協会に入ることにしたのです。そこで彼は、文学、歴史、政治、普遍哲学など、さまざまな知識で心を育て始めます。その後、Bruce はロンドン大学のクイーン・メアリー校とウェストフィールド・カレッジで古代史を学び始めました。
ここで彼は、大学レベルの古代史教授としての学位を得ます。しかし、ロンドン大学が伝説の Bruce Dickinson の人生に加えたものはこれだけではありません。。2011年7月19日、同大学の教育機関は彼に名誉音楽博士号を授与します。この名誉称号は、メイデンのヴォーカリストが長い時間をかけて世界に与えてきたすべての音楽と作曲に対する報酬の象徴。そうして Bruce はその報酬を、再度世界へと還元していきます。
2016年、英仏海峡に浮かぶジャージー島という島の海岸でカメの群れが座礁。生き残ったのはたった1匹。推定年齢6〜8歳のその個体は、傷を負い、漁網に絡まり、危険な低体温症の症状を示していた。
地元住民が発見した後、動物病院に移されたこのカメは親しみを込めて “テリー” と名付けられ、その物語は英国で大きな注目を集めました。テリーの回復と海への帰還のための資金を集めるキャンペーンが開始され、約8000ユーロが集まります。
テリーの状況を知り、登場したのが Bruce Dickinson。パイロットの知識を生かし、ブルースはテリーをジャージーからグラン・カナリア島まで自家用機で運び、すべての費用を負担すると申し出たのです。
スペインに到着後、カメは経験豊富な専門家から1カ月以上にわたって治療とケアを受け、その後、テリーは旅を追跡するGPS装置とともに海に戻されました。この出来事はBBCでも放送され、テリーは Bruce の支援のおかげで自然の生息地に戻り、人類は地球上の他の種に対する思いやりと誠意を示すことができたのです。

Bruce は自らもサバイバーです。喉頭癌からの生還の後、この2年間で Bruce はアキレス腱を断裂し、2度の人工股関節置換術を受けています。65歳になった今、Bruce は、あと50年現役を続けるためにさらなるお金を払うのでしょうか?
「いいコンディションでいられるのなら、そうしたいね。俺たちは皆、本来想定されていたよりもずっと長生きしているし、活動時間も長くなっている。医療技術のおかげで俺は生きている。昔は癌と診断されれば、基本的に死の宣告だったが、今はそうではない。俺の腰は両方ともすり減ったが、今は新しいものを使っている。テクノロジーは、俺たちがより長く、より効果的に生きられるよう、さまざまな点で進歩している。それは素晴らしいことだ」
そもそも Bruce には、時間がいくらあっても足りないでしょう。先に挙げた副業以外でも、Bruce は人生の大半をフェンシングにも捧げていて、1987年には英国ランキング7位となり、ナショナルチームのメンバーにもなりました。昨年、彼は英国フェンシング・ベテランズの正式メンバーとなっています。一方で、1年のうち何カ月もステージを何時間も飛び回り、アンデッドの巨人と戦い、火炎放射器を振り回す65歳は、驚異的です。
「フェンシングの好きなところは、スキーのような他のスポーツと同じで、そこだけに集中できるところなんだ。逃避するには最高の方法だよ。ボクシングのようなものだが、脳へのダメージはない。ボクシングは好きだけど、頭を殴られるのは好きじゃないんだ」
フェンシングと音楽の取り組み方を Bruce はほとんど正反対だと説明します。
「フェンシングをしているときは、よりコントロールし、分析的になろうとするんだ。でもソロアルバムではもっとクリエイティブだ。コントロールと分析には Roy がいるし、そのためにプロデューサーがいる。だから歌の仕事をしているときは、本能に頼っているし、いい意味でうまくいかないことも恐れない。ハッピーアクシデント。このアルバムには、そういう瞬間がたくさんある。最後の曲 “Sonata(Immortal Beloved)” のように、ボーカルの90パーセントは無意識の流れだった。ワン・テイクでね。
そういう魔法みたいなものがあるときは、いじっちゃいけない。ミスがあったとしても、それはミスじゃない。極端な話、曲の生命をすべてコントロールしようとする人もいる。技術的な理由で、彼らの目には以前より完璧になったように見えても、生命はすべて消えてしまっている。誰かがピカソを見て、”バカバカしい、人間はあんな形じゃない!”と言うのと同じだ。的外れだよ」

純粋なイマジネーションに浸れるアルバムで、本能の赴くままに行動し、幻想的な世界とつながるアルバムの中の異端児。”Face In The Mirror” という曲は、壮大なイメージとは関係なく、アルコール依存症というタブー視されがちなテーマと、それが個人とその周囲の人々にもたらす荒廃を提起しています。
「この曲は、アルコール中毒者をたくさん知っていることから生まれたんだ。俺は自分自身に多くの質問を投げかけていた。俺は酒を飲むけど、一般の人とアル中の境界線はどこにあるのだろう?酒に溺れた人間には、時に偉大で深遠な真実を語る奇妙で危険な知恵がある。
鏡を見て、自分自身を見て、あれは誰?でもそれは、公園でスペシャル・ブリューの缶を持って座っている男を見下す人々の偽善でもある。人々は “ああ…彼は弱すぎる” と言う。弱すぎるって?彼の人生を知らないくせに。この男はすごい作家だったかもしれないし、投資銀行家だったかもしれないし、戦争の英雄だったかもしれない。世間は批判的なことばかり言う。そんなこと言わなくても、わかっているんだ」
自伝の制作と、”An Evening With Bruce Dickinson” という自らの半生を語るライブも行いました。
「自伝から始めたんだ。するとみんなが俺に自伝のストーリーを読みきかせてほしいと言ったんだ。自伝を読むのは誰にでもできる。もう少し構成があるはずだし、Q&Aみたいにすることもできる。
率直に言って、手探りでやったんだけど、うまくいったから、それが今の一人芝居の骨格になったんだ。生まれたときから、ガンにかかったり、シエラレオネで傭兵と漁に出たり、道に迷ってあれこれ逮捕されたり、ドラッグを初めて経験したり、イギリスの寄宿学校に通ったり、初めて歌を習ったり、そんな俺の人生を描いたものなんだ。音楽的な内容もあるけれど、基本的には、誰も聞いたことがないような町から来た背が低い子供が、世界最大のロックバンドでとんでもないズボンを履くことになるまでを描いている。
IRON MAIDEN を知っている人も知らない人も、ファンでも何でもないかもしれないけど、俺にとってのリトマス試験紙は、何も知らない人が入ってきて、終わった後に気分が良くなって帰っていくことなんだ。それがショーの後に感じてもらいたいことなんだ」

60年半の間に誰よりも多くのことを成し遂げてきた Bruce は、ようやく人生と遺産について考える時間を持ったようです。彼は鏡を見て何を思うのでしょうか?
「自分が期待しているのと同じくらいの年齢の顔を見たいものだ (笑)。ああ、神様、お願いだから、目の下の袋と皺をなくしてくれないかな って感じで鏡を見るんだ。同年代の人たちほどではないかもしれないけど、それでも俺の顔には生活感がある。でも、結構満足しているよ。物事はうまくいっている。他の選択肢を選ぶよりはいい。
この数年で、たくさんのことを学んだ。好奇心が尽きないということは、自分自身について知らなかったことを知ることができるということだ。自分でも気づかなかった能力があることに気づくんだ。若すぎて、忙しすぎて、テストステロンでいっぱいで、走り回っていたから、完全に無視していた人生の他の塊があることに気づかなかったのかもしれない。このアルバムはその一部なんだ」
音楽以外では、パイロット、航空会社の機長、航空起業家、ビール醸造家、やる気を起こさせる講演者、ポッドキャスター、映画脚本家、小説家、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー作家、ラジオ司会者、テレビ俳優、スポーツコメンテーター、国際的なフェンシング選手など、挙げればきりがない才能の数々で、Bruce が最も誇りに思う業績は何でしょうか?
「そうだね、これらのことはすべて、自分が実際にできるかどうかを確かめたかったからやったことなんだ。ずっと飛行機を飛ばしたいと思っていたけど、学生時代は数学が大の苦手だったから無理だと思った。文字通り、”このボタンは何をするものなんだろう” という気持ちで始めて、そのうち自分にもできるかなと思った。フェンシングも同じようなもので、学校では唯一、一貫して得意なスポーツだったんだけど、他のみんなは俺よりずっと体格が良くて、ラグビーをやっていたら座られてしまいそうだったから、フェンシングは俺にもできることだったんだ。だからきっと誰もがフェンシング選手になれるし、誰もが航空会社のパイロットになれる。
それが面白さであり、俺にとっては、そういった特殊な道や職業、そういったものに対する興味深い見方を提供してくれる。俺の人生で唯一まともな仕事は、航空会社のパイロットだった。17年間出勤し、スマートな格好をし、テストやチェックを受け、その他もろもろをこなさなければならなかった。自然に身につくものでもないし、俺は経験を大いに信じている。できないと思っていることが何であれ、まずはやってみることが大事なんだ」
そして現在はコミック作家まで多彩な経歴とポリマスの才能を持つ Bruce は、それでも自身にとって音楽は特別だと信じています。
「時折、音楽が競技スポーツのように感じられることもある。だけど音楽は愛と喜びについてのもので、さまざまなアプローチ方法がある。時には競技であったこともあるけれど、現実にはそういうことではないんだ。この年のこの日に、俺たちがこのバンドや他のバンドよりチケットが売れたなんて誰も覚えていない。愛と喜びが唯一重要なことで、音楽すべてにおいて唯一実在すること。それがこの仕事を続ける原動力なんだ。このソロアルバムは、俺にとって本当に特別なもの。この “旅” を楽しもうじゃないか」


参考文献: KERRANG!:Bruce Dickinson: “We’re all living longer and more effective lives, which is great – as long as you do something with it”

STEREOGUM:We’ve Got A File On You: Iron Maiden’s Bruce Dickinson

METALHEAD COMMUNITY:10 Reasons Why Bruce Dickinson of Iron Maiden is a Great Man

COVER STORY 【REMEMBERING VITALIJ KUPRIJ (ARTENSION, RING OF FIRE, TRANS-SIBERIAN ORCHESTRA)】


REMEMBERING VITALIJ KUPRIJ (ARTENSION, RING OF FIRE, TRANS-SIBERIAN ORCHESTRA)

“Knowledge, Experience, and Confidence Are The Tools That I Use To Improve Myself. Knowledge Is Something You Gain As You Do It. You Apply Your Knowledge And Get Experience Out Of It. Confidence Is Something You Need In Your Vision To Survive And To Defend Your Point Of View As An Artist. Otherwise You Are Just a Copy Machine Or a Shallow Artist.”

HIGH DEFINITION

ウクライナ系アメリカ人のマエストロ、Vitalij Kuprij が亡くなりました。享年49歳。Vitalij は、コンサートホールのグランド・ピアノでベートーヴェンの協奏曲第4番を弾くのも、アリーナでフル・ロック・バンドに囲まれてネオクラシカル・メタルを披露するのも、両方お手のものでした。
Vitalij はクラシック、メタル、どちらのジャンルにも精通しており、クラシックの楽曲を演奏するソロ・アルバムと、コルグのキーボードでロックするプログ・メタル ARTENSION や RING OF FIRE でも存在感を発揮。のちに、あの TRANS-SIBERIAN ORCHESTRA にも加わり、メタル世界にとって不可欠な存在となっていきました。ARTENSION のファーストは本当に斬新で、キャッチーで、変態で、あの時代に消えかけていたプログ・メタルの炎を再燃させてくれました。
特筆すべきは、彼が教育をしっかりと受けたプロのクラシック奏者だったことで、当時メタル世界の演奏者に彼のような背景を持つ人物はほとんどいませんでした。だからこそ斬新で、個性的な作曲術、特殊なミキシング、鍵盤を打ちのめすような演奏、強烈なアイデンティティまで愛されるようになりました。アルバムを聴けば、音を聞けば、クレジットを見るまでもなく彼だとわかる。
だからこそ、あまりに早すぎるのです。ただでさえ、メタル世界にカリスマ的キーボーディストはほとんど残されていませんし、新たに登場してもいません。Jens Johansson, Andre Anderson, Jordan Rudess, Derek Shrenian…残念ながら、明らかに両手に収まるほどの人数です。Vitalij がこれから残すはずだった音楽、育てるはずだった人たち…あまりにも大きな喪失です。せめて、彼の言葉、ストーリー、メソッドをここに残しておきましょう。音楽は永遠に消えませんが、物語は語り継がねば消えてしまうのですから。

Vitalij の家はミュージシャンの家系でした。
「父はプロのトロンボーン奏者だった。彼はたくさんの役割があってね。トロンボーンが主な楽器だったけど、音楽教師でもあり、音楽学校の校長でもあり、文化会館の館長でもあった。 自分のバンドも持っていて、ベース奏者でもあったね。父は私をトラブルに巻き込んだ張本人さ (笑)。
最初は父の親友が、私にアコーディオンを習わせようとしたんだ。アコーディオンは、ウクライナではとてもとてもポピュラーな楽器だこらね。父はその年の9月のアコーディオン・レッスンに申し込んだ。レッスンを始める前日、父は私を仕事場に連れて行った。そこでフォーク・バンドのために作曲をしていて、私はそこにあったアップライト・ピアノに駆け寄ったんだ。後で父に聞いたんだけど、私はそこでジャムを始めたらしい!私の指は自然にピアノの鍵盤に触れた。 父はその友人に電話して、私をアコーディオンのレッスンからピアノのレッスンに変えることを告げた。 私の人生は完全に変わったんだ! 本当に感謝しているよ。アコーディオンは嫌いじゃないけど、ピアノは王様だからね!」
そうして Vitalij は、ウクライナでクラシックの訓練を受けることになりました。
「クラシックの訓練は基本的に伝統的な西洋音楽だったね17~18世紀の偉大な作曲家を学んでいった。モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスとかね。ウクライナにも偉大な作曲家が何人かいて、学校では彼らの曲も教わったよ。 その中には今日まで心に残っている素晴らしいピアノ曲がいくつかある。 もちろん影響を受けたよ。 レフコ・レヴツキーという偉大な作曲家がいた。彼の音楽は、とても民俗的なものだ。とはいえ、私の訓練の主な基礎はドイツとフランスの音楽だったね」

最も影響を受けたクラシックの作曲家は誰だったのでしょう。
「いつも変わるんだ。自分の楽器や真のクラシック・トレーニングの技術をマスターしたければ、視野を広げ、一つのことに集中しないこと。ただ私にとって際立っていた作曲家はショパンかな。 ショパンは主にピアノのために作曲した。幼い私にとって、ショパンは憧れの存在だったよ」
11歳の時、Vitalij は音楽的訓練を続けるために家を出てモスクワに行き、その後、全ユニオン・ショパン・コンクールに史上最年少で出場して優勝しました。
「当時のソ連では、どんな訓練を受けてもスパルタだった。軍事であれ、音楽であれ、絵画であれ何であれ、軍隊のように行われていたんだ。とても厳しかった。 狭い部屋に5人という寮生活で、プライバシーはなく、すべてが公開されていた。シャワーは週2日。それは最も奇妙なことだったけど、同時に感謝しているんだ。私は必要な規律を得たからね。レッスンは、西欧やアメリカで行われているような週1回ではなかった。私は1日に2、3時間のレッスンを2日おきに受けていた。残りの時間は練習に充てたね。
すべての作曲家を勉強したけど、先ほども言ったようにこの頃の私はショパンに惚れ込んでいて、他の曲は弾きたくなかった。 それは政府に “ファック・オフ” と言っているようなものだった。 先生に “他の曲は弾きたくない” と言ったので、学校の先生たちは、ショパンだけに専念させていいかどうかで議論になった。最終的に、学校の代表としてショパン・コンクールに出場するなら、ショパンの曲だけに専念してもいいということになったよ。
そのコンクールで優勝したことで、本当に道が開けた。 13歳の時に3ヶ月間、列車でソ連をツアーしたんだ。
ショパン・コンクールはロシアの北にあるカザンで開催されてね。私は初めて飛行機に乗ったのだけど、ひどい吹雪の中だったよ。まあだから、良い思い出もあるんだけど、ロシア人と思われることもあるのは困るね。私はウクライナ出身だから」

そんなクラシックの申し子が、他のジャンルに目を向けるきっかけが、Yngwie Malmsteen でした。
「たしかに父がフォーク・バンドで演奏したりするのは見ていたけれど、私は完全にクラシック・オタクだった。 当時、ソ連にはメロディヤというレコード会社しかなかったんだ。兄が Yngwie のアルバム “Trilogy” を買ってきてくれたんだ。それをかけて、あの素晴らしき “Liar” を聴いた。 すぐにバンドを組みたくなった。友達に頼み始めたんだ。
Yngwie のアルバムに心を掴まれたけど、THE BEATLES の “A Taste of Honey” というアルバムもあったし、QUEENのアルバムもあった。 それらすべてをいつも聴くようになったんだ」
Yngwie のどこに惹かれたのでしょう?
「Yngwie はそれほどキーボードをフィーチャーしていなかった。 初期のアルバムではもっと多かったかもしれないけどね。だから結局は、Yngwie の演奏だった!とてもテクニカルで、同時にメロディアスだった。表現力とハーモニーが大好きだった。
それから何年も経ってから、イングヴェイから電話があって、彼のバンドに誘われたんだ。彼のアルバム “Alchemy” に参加してくれってね。彼は電話してきて、私をフロリダに呼んで、このアルバムでキーボードを弾いてくれと言ってくれたんだ。
でも当時私はすでにソロアルバムを2、3枚出していて、ARTENSION のアルバムも2、3枚出していた。そしてクラシックの世界でもブレイクしようとしていたんだよね。だから、そのオファーを丁重に断ったんだ。
Yngwie と一緒に仕事をしたかったけど、彼がシュレッドしている間に2つか3つのコードを弾くために、自分のレコードや ARTENSION のレコードでやっていたことを諦めたくなかったんだ。でも、ギターとキーボードの革命的なシュレッドでネオ・クラシックのモンスターを作れたら最高だと思う!そのレコードは音楽的に素晴らしいと思う。
ただね、気がつくと、彼は日本のマスコミで私のことを “経験がない” と酷評していた。私はロックの世界に入ったばかりで、まだ何も発表していないとね。彼は私のことをよく知りもしなかった。私が “イエス” と言わなかったからって、マスコミで私をゴミ扱いしないでよ (笑)」

ウクライナやソビエトでは、メタルを学ぶことも簡単ではありませんでした。
「徐々に学んで行ったよ。私の国では何でも手に入るわけではなかったからね。西洋のロックバンドのほとんどは、ずっと後になってから来るようになった。私の国にはロック文化がなかったんだ。 でも結局、兄が洋楽をたくさん集めていたので、それを聴いて自分の音楽スタイルを確立していったんだ」
コンクールで優勝した後、Vitalij はソビエトで国内ツアーを行いその後、スイスでさらに修行を積みました。
「バーゼル音楽院で4年間、全額奨学金をもらって勉強したよ。有名なオーストリアのピアニスト、ルドルフ・ブッフビンダーに師事してね。彼は西洋の演奏スタイルや規律について多くのことを教えてくれたんだ。私はロマン派的でロシア的な環境で育ったので、ブッフビンダーは西欧的な規律ある態度で私を磨いてくれたんだよ」
ARTENSION のギタリスト Roger Staffelbach に出会ったのもスイス留学中でした。
「Roger はもう25年来の友人だよ。夏の間、スイスの小さな町に住んでいたんだけど、そこにピアノ・バーがあって、よく通ってジャムっていたんだよ。そこに Roger が入ってきて、自己紹介してくれたんだ。私はドイツ語が話せなかったから、少し言葉の壁はあったけど、彼はキーボード奏者を探していてね。彼と私は意気投合し、一緒に演奏するようになった。月曜日から金曜日まで、私は電車で1時間のところにある音楽アカデミーで音楽を学び、金曜日の夜、電車で Roger の家に行き、週末は彼のガレージでリハーサルをした。 日曜の夜はまたアカデミーに戻る。
Roger と私は、さらに2人のスイス人奏者と素晴らしいインストゥルメンタル・カルテットを結成したんだ。ATLANTIS RISING という名前だった。私はネオクラシックの曲を書き始め、カセットテープを作るためにお金をつぎ込んだ。カセットテープを300本は作ったと思う。私たちはスカンクのように無一文で、CDを作りたいだけのハングリーな少年だった!」

このカセットの一つが、シュレッドの総本山、シュラプネル・レコードに届くことになりました。
「シュラプネルの Mike Varney が聴いてくれたよ。Roger と私は2人ともアメリカに行くことになった。Roger が西海岸にいる間に、私はカーティス音楽院のオーディションを受けるためにフィラデルフィアに行ってね。 オーディションの後、私は Roger のところへ飛んで行き、その後2人でカリフォルニアのノバトへ飛んで Mike に会ったんだ。当時、シュラプネルは、私たちがやっていることと似たような音楽をたくさんリリースしていたからね。そして彼らは私たちと契約し、それが ARTENSION となったんだ」
世界でも有数の難関音楽学校に入学し、ARTENSION を結成してファースト・アルバムをリリースし、翌年にはファースト・ソロ・アルバムをリリース。カーティスに通いながら、どのようにすべてのバランスをとっていたのでしょう。
「大きなキャリアを築くのは、2つの分野を情熱的にターゲットにすると難しい。でも、私はそれがどんなに難しいことであっても気にしなかった。学期を終えて、他の学生が休みに入っている間、私はピアノで作曲をし、自分が何を書いていたかを思い出す。そしてカリフォルニアに飛び、ARTENSION でレコーディングをし、また戻ってクラシックの勉強に戻る。カーティスは厳しい学校で、おそらく世界ナンバーワンだろうな。
ARTENSION だと、”Phoenix Rising” は素晴らしいと思うし、もちろん “Into the Eye of the Storm” は最も印象に残る作品だけど、私は “Forces of Nature” が本当に好きなんだ。新しいベーシストとドラマー (John Onder と Shane Gaalaas が加わって、また違った雰囲気になった」

ARTENSION でツアーは行ったのでしょうか?
「いや、ARTENSION はライブをやったことはないんだよ。でも、日本での成功が大きかったので、ほとんどやれそうだった。ファースト・アルバムはゴールドになるところだったからね。日本でのツアーを計画したんだけど、ツアー・マネージャーが私の書類をめちゃくちゃにしたんだ。 当時私はまだ若く、ソ連のパスポートを持っていて、アジアを旅行するときにどんな特典があるのか知らなかった。 私はサンフランシスコのホテルで就労ビザが下りるのを待っていた。で、結局私はそのツアーに出られなかったので、他のメンバーはプロモ出演をして、飛行機で帰ってきたんだ」
ARTENSION のアルバムには、”I Don’t Care”, “I Really Don’t Care”, “I Really, Really Don’t Care” というピアノ曲が収録されていました。
「最初のアルバムでは “I Don’t Care” だった。座ってジャムったんだ。Mike が私の才能を高く評価してくれていたから、ちょっと披露したかったんだ。アルバムにピアノ・ソロの曲を入れなければならなかった。 そして次の作品では、そのコンセプトを続けたいと思った。安っぽいけど面白い(笑)」
2001年にボーカリストの Mark Boals のソロアルバム “Ring of Fire” で彼と一緒に仕事をするようになりました。
「Mark とやれることで興奮はしなかったが、もちろん賞賛はした!彼は僕にとってとても重要なアルバム “Trilogy” で歌っていて、一緒に演奏しようと誘ってくれたんだからね!楽しかった。そのソロ・アルバムにちなんで、実際のバンドになったんだ。私が曲を書き、Mark が歌詞とメロディーを書いた」

バンドは2枚のスタジオ・アルバムと、日本で録音された2枚組の素晴らしいライヴ・アルバムをリリースしました。ただ、Vitalij が参加していない作品もあります。
「Mark と私はいくつかの点で誤解しあっていた。大げさなことではなく、私たちが同意できなかったことがあっただけなんだ。ARTENSION は、キャリアの始まりという点で、私の心に少しだけ近かったので、私は ARTENSION と自分の作品に集中し続ける一方で、Mark には他のプレイヤーと一緒にやるように伝えたんだ」
Vitalij のソロアルバムはほとんどがインストゥルメンタルで、ソロのための十分なスペースがあり、鍵盤を前面に出しています。ARTENSION はボーカルを起用していますが、RING OF FIRE ほど大人しくはありません。
「ソロ作は私がほとんどの曲を書いたので、常にキーボード中心だ。ボーカルを書く機会も模索していたけどね。ボーカルものでは、私が派手になるという点では限界があったかもしれないけれど、ソロ・アルバムを通してならそれができる。 アルバムが進むにつれて、バンド自体のパワーに集中するようになったから、私が目立つことは少なくなった。でも、どのアルバムにも必ず私らしさがあるよ。
それに、ARTENSION では John West の音域を知り、バンドのスタイルを知り、バンド内のプレイヤー同士の相性を知りながら書くことも意識した。RING OF FIRE でも同じだ。
今は、ただ書いて、とてもパワフルでエモーショナルな感じの音楽にしたいと思っている。より作曲に集中し、より成熟したレベルに持っていく。自分が経験したことから集めた知識をすべて活用し、特定のバンドやプロジェクトをターゲットにすることなく、淡々と書いている。私はただ自分の書いたものを捕らえ、保存し、発展させ、変化させ、また戻ってきたいだけなのだ。 音楽を書くことは、とにかく驚異的だ。とても無邪気なプロセスで、新しい情報が生まれるから大好きだ。 何もないところから始めて、音楽的でスピリチュアルな情報を得る」

例えば、RING OF FIRE アルバムの中を見ると、”All music written by Vitalij Kuprij” と書かれていますが、ギター、ベース、ドラムのパートも Vitalij が書いているのでしょうか?
「すべての曲、すべてのパートをキーボードで書いているよ。だから、ギター、ドラム、ベースがキーボードで演奏され、他のメンバーが何を演奏すべきかの明確な方向性を示しているんだ。 特に後期のアルバムでは、より考え抜かれたものになっている。即興的なものはなるべく省いて、自分自身に任せるようにしている。 だからレコーディングのためにメンバーが集まったときには、構造的にはかなり練られているんだ。
ただ、決まった公式があってはならないと考えている。何かを目指さなくてはならないが、物事は自然に起こるものだ。それがあなたなのだから」
TRANS-SIBERIAN ORCHESTRA での最初のツアーは2009年のイースト・ツアーでした。
「あれは完全に “青天の霹靂” 。ある朝起きてコーヒーを飲み、メールをチェックした。彼らのマネジメントから、Paul O’Neill と会うためにフロリダまで来てほしいというメールが来ていた。 彼らがどのようにして私のことを知ったのかはわからない。Paul が何でもできてフレキシブルなキーボーディストを探していたのは知っている。彼はレコード業界で一緒に仕事をしたことのある人に電話して、その人が私を推薦してくれたんだ。数週間後、私はそこにいた」

TSOや SAVATAGE のことは知っていたのでしょうか?
「SAVATAGE は知っていたよ!なんて素晴らしいバンドなんだ!Burrn! 誌の SAVAGAGE 特集に載ったこともあるんだ。SAVAGAGE の曲を演奏するのは楽しいよ。もし彼らと一緒にツアーに出て、彼らの曲だけを演奏できるのなら、今すぐにでもやりたいよ。とてもロックで楽しくて、本当に僕の好みなんだ。Chris Caferry は John West と仲が良かったので、彼のことはよく聞いていたしね」
2015年の Wacken では、その SAVATAGE の一員とさはてプレイしました。
「うれしい依頼だった!私は彼らと彼らの音楽が大好きなんだ。これも私にとって忘れられない瞬間だった。それが Wacken だったことも、イベントの規模も忘れて。SAVATAGE の音楽を演奏することは、僕にとってとてもスリリングなことだった。Roger と初めて会って、ATLANTIS RISING を結成したときのことを思い出すよ。フロリダでリハーサルをやっていたんだけど、演奏しながら文字通り飛び跳ねていたよ。
“Jesus Saves” を演奏しているとき、私は飛び跳ね、汗をかき、ただとても楽しかった。2014年のヨーロッパTSOツアーで SAVATAGE の曲を演奏したのは素晴らしかったけど、SAVATAGE の一員として、SAVATAGE を愛し、SAVATAGE を観に来てくれたファンのためにここで演奏するのは本当に特別なことだった」

ウォームアップのルーティンなどはあるのでしょうか?
「楽屋にキーボードがあって、指の運動をして血の巡りをよくするんだけど、それはクラシックで訓練されたキーボード奏者としてはごく普通のことなんだ。でも、本番前の精神集中が大事なんだ。 ステージに上がる10分くらい前からシャットダウンして、目を閉じてアドレナリンと責任感に苛まれるモードに入るんだ」
Vitalij のアルバムのライナーノーツには、たいてい、”知識、経験、自信” を使っていると書かれています。
「それは私が自分自身を向上させるために使うツール。知識はやっていくうちに得られるもの。知識を応用して経験を積む。自信は、アーティストとして生き残り、自分の視点を守るために必要なものだ。そうでなければ、ただのコピーマシンか、浅薄なアーティストになってしまう」
クラシックの方だけに専念して、クラシックのピアニストとして名を馳せることを考えたことはあるのでしょうか?
「もちろん、若い頃はね!ヴラジミール・ホロヴィッツは私のアイドルだからね!ヨーロッパでオーケストラと共演したこともある。リサイタルもやったし、マスタークラスも開いた。ブラームスのピアノ協奏曲第1番、ラフマニノフの第2番、ベートーヴェンの第4番を演奏したよ!でも、そう、私は木のように自分を広げている。 私は音楽の力と喜びを感じられることをしたいんだ。私はクラシックの訓練を受けているので恵まれているけど、選択肢はたくさんある。クラシックを演奏することもできるし、ネオクラシカルなシュレッドを演奏することもできる。 私に音楽の喜びをもたらしてくれるものなら何でもいいんだ」

ホロヴィッツをアイドルとして挙げていますが、ロック面では誰に影響を受けているのでしょうか?
「ロックをあまり聴くことができなかった国から来たので、そのような影響という点では、本当にスクエア・ゼロからのスタートだった。尊敬する偉大なロック・キーボードのレジェンドたちのディスコグラフィーを研究していたら、自分自身の何かを失ってしまうということに気づいたんだ。私は完全に暗闇の中で狩りをするような気持ちでやっている。 偉大な音楽の一部が無意識のうちに沁み込んでしまい、”生の自分” を少し失ってしまうことが怖いんだ。
確かに Keith Emerson, Jon Lord, Rick Wakeman には大きな愛と敬意を抱いている。そして現役のプレイヤーでは、Jens Johansson を尊敬している。昔の彼はとても面白くて、とてもクールだった。彼自身も素晴らしい。Mike Pinella の大ファンでもある。Jordan Rudess も大好きだ。以前は、テクノロジーに重点を置く彼の芸術へのアプローチに懐疑的だった。 私は作曲してからスタジオでレコーディングするのが好きなんだ。しかし、そうしたプレーヤーに憧れているにもかかわらず、私は彼らから影響を受けてはいない。よくアーティストに尋ねると、”この人やこの人がいなかったら、私は今やっていない” と言うだろうが、私はそうではない。 自分の要素に集中する余地がなくなるから、頭の中にあまり詰め込みたくないだけなんだ」
メタルで好きな作品はあるのでしょうか?
「私は DREAM THEATER が大好きだ。すべてのアルバムを知っているし、メンバー全員にも会ったことがある。まだスイスにいた1993年に彼らのアルバム “Images and Words” にハマったんだ。Gary Moore, QUEEN, Sting も大好きだ」
クラシック以外の音楽を探求したことはありますか?
「もちろん。 常にね。ジャズでもヒップホップでも何でも、いろいろなジャンルの音楽を探求するのが好きなんだ。私はいつも作曲をしているし、これらのスタイルの音楽を演奏したり書いたりしてきた。音楽に限界はないんだよ」 安らかに…


参考文献: MUSIC AND ART: INTERVIEW VITALIJ KUPRIJ

COVER STORY 【MARILLION : BRAVE 30TH ANNIVERSARY】


COVER STORY : MARILLION “BRAVE” 30TH ANNIVERSARY !!

“We Knew It Wasn’t Immediate, We Just Hoped That People Would Give It The Time Of Day And Allow It To Grow On Them.”

BRAVE


30年前、”Brave” というレコードが全英アルバム・チャートで10位を記録しました。その9年前にヒットしたシングル “Kayleigh” で知られていたバンドが、別のシンガーをフロントマンに起用した作品です。今となってはすっかり昔の話ですが、バンドは今でも精力的に活動を続けていて、今でも最高到達点を更新し、今でも筋金入りのファンたちは “Brave” 記念日を盛大に祝っているのです。しかし、そのバンド、MARILLION はなぜこれほど強力なファンベースを今でも維持できるのでしょうか。そして、”Brave” リリース後に何が起こり、彼らはプログの新境地におけるパイオニアとなったのでしょうか。MARILLION の長く奇妙な旅路を振り返ります。
まず事実の整理から。MARILLION は1979年に結成され、1982年から1988年の間に4枚のスタジオ・アルバムをリリース。ポスト・パンクから現れた変則的なプログ・バンドから、ヒット曲を持ちテレビ出演を果たす正真正銘のロック・バンドへと成長していきました。Fish は、GENESIS 時代の Peter Gabriel のようなシアトリカルな雰囲気を漂わせながら、愛、薬物乱用、パラノイアをテーマにエッジの効いた現代的な歌詞を放つスコティッシュとしてバンドの顔となります。そうして彼らは、パンクに挫折したロック・ファンや、その鋭いフックに魅了されたポップ・ファンを取り込み、瞬く間に支持を得ていったのです。
1985年のアルバム “Misplaced Childhood” では、シングル “Kayleigh” が2位を記録する大ヒットとなり、アルバムはチャートのトップに躍り出ました。しかし、Fish の歌詞にある薬物によるパラノイアが単なる演技以上のものであることが判明するなど、舞台裏ではすべてがうまくいっていたわけではありませんでした。もう1枚アルバムを出した後、Fish は脱退し、MARILLION はすべてを使い果たしたように見えました。しかし、これは驚くべき第2幕の始まりに過ぎなかったのです。

1989年、バンドは新しいシンガー Steve Hogarth を迎えて “Season’s End” をリリースします。Fish 時代の忍び寄るメロドラマは、成熟し洗練された絵画に変わり、アルバムはヒット。バンドにまだ命があることを示しました。Fish は紛れもなくカリスマ的ポップ・スターで、ウィットに富み、物知りで、名声ゲームに惹かれると同時に反発するような人物でしたが、Hogarth は目を見開き、誠実で、正直な情熱を音楽に注ぎました。
ただし、その後のアルバムはチャートへの食い込みが弱くなり、ヒット、ポップ・スターダムは遠い過去の出来事のように思えました。レコード・レーベルであるEMIも、ヒット作を出すことができなかったバンドのコストが急騰するのを防ぐため、安価なその場しのぎのアルバムを望んでいました。
1994年。そうした背景の中で MARILLION は、セヴァーン橋で彷徨っているところを発見された少女をテーマにしたコンセプト・アルバムを携えて再登場しました。Hogarth はこれまでで最も感情的な歌詞を掘り下げ、この悲劇的な少女のあらゆる側面を探求しました。一方バンドは、ギタリストの Steve Rothery が心を揺さぶるソロと魅惑的なテクスチャーを何度も繰り出しながら、最も鋭敏な音楽を作り上げたのです。それは MARILLION が個人的なテーマから社会的なテーマへと、商業的な成功から芸術的な成功に舵を切った瞬間でした。

80年代半ば、Hogarth は地元のラジオ放送で、イギリスのセヴァーン橋で一人でさまよっているところを発見された10代の少女についての、警察の説明を聞きました。発見されたとき、彼女は誰とも話すことができなかったか、あるいは誰とも話さないことにしていたのです。しばらくして、警察はラジオで少女の身元を知る人に対して呼びかけることにしました。結局、少女は家族に引き取られ、家に戻されたのですが、Hogarth はこのことをメモし、MARILLION が後のアルバム “Brave” の制作に取りかかるまで、何年もあたためておいたのです。
制作に入ると Hogarth は橋の上の少女のことを思い出し、アルバムが彼の頭の中で形になっていきます。バンドは “Living with the Big Lie”と “Runaway” の2曲を書き、前者は人々がいかに物事に慣れてしまい、すっかり鈍感になってしまうかを歌ったもので、後者は機能不全の家庭から抜け出そうとする少女の苦境を歌ったものになりました。Hogarth はこのストーリーをバンドに話し、性的虐待(当時メディアでますます報道されるようになったテーマだった)、孤立、薬物中毒、そして自殺を考えたり試みたりするほどの衰弱といった問題や恐怖を持つ人生という架空の物語を提案したのです。
セヴァーン橋は1966年に開通して以来、自殺の名所となっており、名もなき少女のような悩める魂を惹きつけてやみません。彼女は自分の名前を名乗ろうとせず、話すことさえ拒否しました。警察はラジオやテレビで情報提供を呼びかけ、その時、Hogarth は彼女のことをはじめて耳にしました。
「まるで推理小説の最初のページのようだと思った。走り書きして、そのことはすぐに忘れたんだ」
しかし、”飛び降りなかった少女” の物語は、Hogarth の心の奥深くに留まり、潜在意識の波のすぐ下に浮かんでいたのです。

Hogarth が再び彼女のことを考えたのは1992年のこと。その頃、彼は数年前に加入したバンド MARILLION のシンガーになっていて、バンドが新しいアルバムのために曲作りをしていたとき、彼はバンドメンバーに “飛び降りなかった少女” の話をしたのです。
この物語を中心に作られたアルバム “Brave” は、彼らのキャリアの中で最も重要な作品となりました。このアルバムによって、彼らの将来が決まったのです。”Brave” は、バンドとしての彼らを最終的にひとつにまとめましたが、同時に長年のレーベルであるEMIとの関係を取り返しのつかないほど悪化させ、彼らの以前からのファン層を一気に遠ざける結果も伴いました。痛みを伴う改革。それが現在の彼らをもたらしたのです。
当時 “Brave” が大失敗した大博打に思えたとしても、今日では1990年代の偉大なコンセプト・アルバム、傑作として語り継がれているのは痛快なものがあります。知性と深みのある踏み絵のようなアルバム。つまり、セヴァーン橋の少女の物語は、MARILLION のメタファーとして読むこともできるのです。少女は飛び降りませんでしたが、MARILLION は飛び降りたのです。
「”Brave” は、ジグソーパズルのピースがついに揃ったアルバムだった。MARILLION は、私を加えた別のバンドになった。今のバンドになったんだ」
Hogarth と MARILLION のパートナーシップは、1989年の “Season’s End” で軌道に乗りましたが、それはある意味、反抗的な行為でもありました。
「多くの人が、Fish なしでは失敗すると思っていた。でも、メンバーはみんな一緒に仕事ができることに興奮していたし、あっという間だった。”今、自分たちはどんなバンドになりたいのか?”ということを考えるために立ち止まることはなかったね」

キャリアを始めて10年以上が経ち、MARILLION は貴重な教訓を得ていました。「EMIのやり方で商業的なレコードを作ろうとしたが、うまくいかなかった。売れても売れなくても、少なくとも芸術的には満足できる作品を作ろう」
彼らの次の行動は、正反対の方向に進むこと。”Holidays in Eden” が素早く、きらびやかで、最終的にはある種の妥協だったとすれば、”Brave” はそうではありませんでした。
“Holidays In Eden” と “Brave” の間に、MARILLION の世界ではいくつかの重要なことが変化しました。その中には、彼らがコントロールできるものもあれば、そうでないものも。ただ、彼らが下した重要な決断のひとつは、オリジナルのラケット・クラブに新しい機材を導入し、次のアルバムのために前金を使うことでした。
「レーベルは大反対だった。でも僕らは、”複数のアルバムに使えるよ” って言ったんだ。そのおかげで、後にEMIから契約解除された時のための準備ができたんだ。私たちは、ゆっくり仕事をし、あらゆる選択肢を模索し、音楽について熟考し、あごをひっかいたり、頭をなでたりするのが好きなんだ。そして、ここだけの話、”次のアルバムは好きなだけ時間をかけよう “と思ったんだ。そしてそうしたんだ」
そうして MARILLION は、南フランスの正真正銘のシャトーでレコーディングする機会を突然与えられました。ドルドーニュ地方のマルアットにあるその城は、バンドのUSレーベルIRSの代表であり、POLICE のドラマー、Stewart Copeland の弟の所有物件でした。
「そのアイデアが気に入ったんだ。そうだ、家を探そう、そうすれば費用も抑えられるし、雰囲気のある場所を探して、そこで仕事をしよう。僕らはみんな、それが面白いレコードになるし、冒険になると思ったんだ。夜が明けてすぐに着いたんだ。丘の上に見えて、基本的にのホラーハウスだったよ」

“Brave” は、実際に5人で書いた初めてのアルバムだったと Rothery は言います。
「コンセプト・アルバムであったからこそ、このアルバムは、私たちにとって、とても重要な作品となった。コンセプト・アルバムだったから、他のメンバーも私たちがやろうとしていることを理解しやすかった。私が思うに、今回はレコードを作るか、傑作を作るかのどちらかだ。だから、どうしてほしいか言ってくれとね。それでみんな、”傑作を作ろう” となった」
作業を進めるにつれて、曲は焦点が定まり始め、包括的なコンセプトも定まっていきました。橋の上の少女についての直接的な物語というよりは、彼女がそこにたどり着くまでの一連のスナップショット。さらに Hogarth によれば、歌詞の多くには自伝的な要素が薄っすらと隠されていたといいます。”Living With The Big Lie”, “Brave itself” そして特に “The Hollow Man”。
「私は動揺していた。外見はますますピカピカになり、ジャン・ポール・ゴルチエを身にまとっていた。小さな子供2人の父親でありながら、それに向いていない、そう感じていた。そのすべてのバランスを取りながら、バンドの運命を復活させるような素晴らしい作品を作り上げようとしたんだ」
すべての曲がコンセプトに合っていたわけではありません。”Paper Lies” の脈打つハード・ロックは、レーベルの強い要望でアルバムのムーディーな音楽の流れに刺激を与えるために収録されたもの。もともとは悪徳新聞王ロバート・マクスウェルの死にインスパイアされたもので、後付けで既存の物語に組み込んだに過ぎません。この曲の主題である、ヨットからの転落事故で謎の死を遂げたロバート・マクスウェルにちなんで、この曲は巨大な水しぶきで終わります。「この曲には VAN HALEN からの影響があるかもしれないね」

“完成したときでさえ、それが何なのかわからなかった” そう Hogarth は言います。
「ミックスを聴いて、とても緊張したのを覚えている。興奮すると同時に、”これは THE WHO の “Quadrophenia” か何かに似ている。みんなにどう評価されるかわからない” って思ったね」
地平線には他にも嵐が立ち込めていました。EMIは、MARILLION が “Brave” の制作に要した時間の長さに良い印象を抱いていませんでした。この 生々しい アルバムは、数ヶ月遅れで、しかも決して安くはなかったからです。Rothery は言います。
「その7ヶ月が終わるころには、レーベルとの関係には壁が立ちはだかっていた。素晴らしいレコードを作ったことが、この莫大な出費とレーベルとの関係の悪化を正当化できるほど成功することを願わなければならなかった」
EMIの失策。それはリスニング・パーティーで起こります。彼らは、さまざまなジャーナリストやラジオの重役を招待し、聴いているのが誰なのかを知らせないというやり方をとりました。
「あれはEMIの大失態だった。EMIは人々に PINK FLOYD の新しいアルバムだと思わせようとした。そうすれば、より多くの人がプレイバックを聴きに来てくれると思ったからだ」
しかし長い間、批評家の捌け口となってきたグループにとって、”Brave” は驚くほど好評でした。”Q” 誌は、このアルバムを “ダークで不可解” と絶賛。Hogarth はその表現にほほえみます。「私はそれが気に入った。褒め言葉だよ」
しかし、”ダークで不可解 “は、伝統的に商業的な成功とはイコールではありません。”Brave” は、ギリギリのところでUKトップ10に食い込みましたが、ファーストシングルの “The Hollow Man” は30位。続いてリリースされた軽快な “Alone Again In The Lap Of Luxury” はトップ50にすら入りませんでした。

ただ公平に見て、”Brave” のタイミングは最悪でした。”Brave” がリリースされたのは、ブリットポップ・ムーヴメントが花開き始めた頃。自殺願望のある少女をテーマにした70分のコンセプト・アルバムは、BLUR や OASIS の前では常に苦戦を強いられることになりました。
「即効性がないことはわかっていた。私たちはただ、人々がこのアルバムに一日の時間を与え、彼らの中で成長することを望んでいた」
ツアーでバンドはアルバムを最初から最後まで演奏し、Hogarth は Peter Gabriel 流に曲の登場人物を演じました。ある時は、髪をおさげにして口紅をつけ、女の子自身を演じます。これは意図的な挑戦でした。
「コンサート会場の雰囲気は、”クソッタレ、これは何だ?”という感じだった。アンコールで “Brave” 以外の曲を演奏したときは、まったく違うショーになった。人々が安堵のため息をついているのが体感できたよ」
ツアーもアルバムも、MARILLION のオーディエンスを増やす、あるいは維持することにはあまり貢献しませんでした。”Brave” のセールスは30万枚ほどで、今となっては良い数字ですが、5年前の “Seasons End” の半分以下だったのです。セールス的には、確かに以前より落ち込んでいました。
“Brave” が長引いたことと、明らかに成功しなかったことは、所属レーベルのトップも気づいていました。少なくとも次のアルバムではより速く仕事をすることを考えるべきだとバンドは認め、そのアルバム “Afraid Of Sunlight” は、”Brave” のちょうど1年後にリリースされました。しかし、すべては遅すぎました。彼らの予想通り、レーベルは間もなく彼らを切り捨てました。
「メディアから嫌われるバンドに戻ってしまった。メインストリームの音楽メディアを見る限り、私たちは生きる価値がなかった。いつも通りのね」

しかし、”Brave” には後日譚が。この “ダークで不可解 ” なレコードは、当時は売れ行きが芳しくなかったものの、今では独自の余生を過ごしています。彼らは過去20年の間に2度このアルバムを再訪し、2003年と2011年にアルバムをフルで演奏しています。
「”Brave” で多くのファンを失った」そう Hogarth は言います。「評判は良くなかった。だけど今では誰もが振り返って “なんて素晴らしいアルバムなんだ” と言う。発売された日には誰もそんなことは言わなかったのにね」
その長寿の理由のひとつは音楽的なもの。慎重なテンポ、移り変わるムード、日本語の使用や南仏の洞窟で岩が水しぶきを上げる音を録音するような細部へのこだわり。それは、究極の負け犬バンドによる究極の負け犬レコード。
「僕らを聴いてくれた人たちは、時間を投資することを厭わないんだ。彼らは、”よくわからなかったから次の作品に移る” のではなく、”ああ、よくわからなかったからもう1回聴いてみよう” と思ってくれるんだ」
結局、”Brave” は当時のチャートに知的で複雑なコンセプチュアル・ミュージックのスペースがまだあることを証明したのです。このアルバムから、わずか3年後にリリースされたレディオヘッドの “OK Computer”、そして ANATHEMA の傑作 “The Optimist” へと知性を求める音楽ファンは一本の線をたどることができるはずです。”The Optimist” は、無意識のうちに “Brave” のサイコ・ジオグラフィックな旅路と呼応しており、MARILLION が20年の後に発表する “F.E.A.R.” は “Brave” と非常に多くの特徴を共有するアルバムになりました。
Pete Trewavas は言います。「僕たちは、どこでも聴けるようなキラキラした音楽を演奏するためにここにいるんじゃない。何か違うことをやって、木々を揺らして、人々に考えさせるためにここにいるんだ。そうであってほしいし、今もそうでありたいよ」
橋の上の少女は結局、MARILLION のストーリーを知っているのでしょうか?Hogarth は、彼女の両親が彼女を迎えに来て、ウェスト・カントリーに連れ帰ったという記事を読んだことを覚えています。
「彼女はその後、それなりに幸せに暮らしたと思う。連絡は取っていないが、アルバムのことは知っているのではないかな」

後に小さなレーベルに移籍した彼らは、商業的な成功との闘いを続け、ついにはアメリカ・ツアーをする余裕がないことを認めざるを得なくなり、どん底に達します。しかしその後、非常に驚くべきことが起こりました。
そうした変化にもかかわらず、バンドには依然として強力なファンベースがあり、そのファンはますます熱狂的になっていました。MARILLION を見ることができなくなることを覚悟したアメリカのファンは、バンドをアメリカ国内で活動させるために6万ドルを出資。実質的に MARILLION はクラウド・ソーシングに成功した最初のバンドとなったのです。インターネットの台頭に注目した MARILLION は、自分たちのファン層と関わる前例のない方法を発見し、それまでは想像もできなかったレーベルを通さない “個人的な” つながりを築くことに成功したのです。
このファンとのつながりは、バンドだけでなく、音楽ビジネスのあり方にも大きな影響を与えました。ファンとの絆を築き、ファンのことを知り、ファンがバンドに何を求めているかを理解することで、MARILLION はレコーディング前にアルバム代金を支払ってもらうという前代未聞の過激な行動に出ることができました。1万枚以上の予約注文を受け、”Anoraknophobia” はファンによって支払われる、多くのメジャー・レーベルのアーティストが切望するような自主性を得ることができました。”ヒット” レコードを作らなければならないというプレッシャーがなく、すでに制作費用をまかなっていた MARILLION は、自分たちが望む、そしておそらくより重要なことですが、ファンが求める音楽を作ることができたのです。熱心なスポンサー (ファン) には、レコードに写真や名前を載せたり、アルバムの特別なヴァージョンを提供することで、彼らは自分たちのために新しい道を切り開くことをやってのけました。

この試みがバンドの新時代の幕開けとなった一方で、メインストリームのメディアで MARILLION は今だにオールディーズ・アクトとして一括りにされ、世間一般の認識も Fish の全盛期から真に前進していないというイメージに固執していました。ラジオやテレビで流されることはめったになく、バンドはカルト的で、流行に乗り遅れた存在だと思われていたのです。プログというジャンルがもはや消えかかっていたために、例え MARILLION について言及されたとしても、中世の吟遊詩人の一団で、リュートを演奏し、トロールについて歌っているのだと言われることも珍しくはありませんでした。彼らがもはや論理的には RADIOHEAD の “OK Computer” と接近していたことなど気にすることもなく、世間一般では、MARILLION のファンであることは最も時代遅れなロートルだと見なされていたのです。
クラウド・ファンディングが以前は手の届かなかった安全性を保証した一方で、バンド、特に Hogarth は、真剣に受け止められようとする試みに苦痛を感じていました。音楽がまだビッグ・ビジネスだった時代、MARILLION のメインストリームからの追放と彼らの熱狂的なファンは、奇妙で場違いな存在と見なされました。音楽プレスはバンド名を見て80年代を思い浮かべ、それに従って判断するだろうという諦めもありました。インタビューのたびに、Hogarth はジャーナリストたちに、先入観を捨てて、ただ恣意的に彼らを切り捨てるのではなく、実際に音楽を聴いてほしいと懇願しましたが、それは無駄骨でした。
その後、マリリオンは2004年の “Marbles” と2007年の “Somewhere Else” でヒット・アルバムとトップ20シングルを獲得し、チャートの上位に返り咲きました。しかし、チャートでの成功でさえも、バンドが以前のような地位を取り戻すことは簡単ではありませんでした。レコード・チャートは上位にランクインしていましたが、これは、自分たちの好きなバンドが特別な存在であることを世界中に知らしめようとする、ファン層の断固とした努力によるところが大きかったのです。ファンは MARILLION を広めるために極限まで努力する用意があり、こうしたチャートの順位は、バンドに対する外部からの純粋な関心というよりも、むしろファンの意志の強さを表していたのかもしれません。

この時期までに、MARILLION はファンの間でほとんど神のような地位を築いており、ファンもまた、グループに対する強烈な、時には極端なまでの愛情を示していました。Hogarth の指揮の下、このバンドは人生をサウンドトラック化するようになり、彼の複雑で情熱的なソングライティングは多くの人々にとってほとんどスピリチュアルな尊敬の念を抱かせるようになっていたのです。コンサートは、バンドへの愛を通して生涯の友情を築き、世界中の様々な場所で開催されるコンベンションに参加し、バンドはファンの好きな曲を演奏することで愛情に応えました。
多くのファンにとって、MARILLION は本当に重要な唯一のバンドであり、他のバンドが恐れをなして踏み入れないような場所に行く存在となりました。ここ数年、バンドに対する雪解けは進み、音楽メディアの間でも、バンドを受け入れようとする明確な動きが出てきました。バンドの成熟したロック・ブランドには “プログレ” の面影はほとんどなく、その一方で、最近のアラン・パートリッジの映画でバンドは小さいながらも重要な役割を果たすなど、否定的な人たちよりも長生きすることで、MARILLION の正しさが証明されたと言えるかもしれませんね。
MARILLION はロックの歴史に自分たちの特別な場所を残しました。彼らはあらゆる変化を乗り越えて、80年代の MARILLION に対する先入観が過去のものとなりつつある今、さらに多くの人々を、増え続けるファンの一員にしようとしています。ANATHEMA や PORCUPINE TREE のようなバンドがこのバンドに脱帽しているように、彼らが “Brave” で勇気を持って橋から飛び降りたことは、長い目で見れば奇跡的な “Made Again” だったのです。

参考文献: THE THIN AIR:20 Years of Being Brave – How Marillion Crawled Back From Obscurity

CLASSIC ROCK REVIEWMarillion Brave (1994) – The inside story behind Brave

MARUNOUCHI MUZIK MAG: FEAR INTERVIEW

NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【MADDER MORTEM : OLD EYES, NEW HEART】


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH AGNETE M. KIRKEVAAG OF MADDER MORTEM !!

“Globalisation Means a More Diverse Culture Generally, Which Also Goes For Metal. It’s Not Only a White Male 18-25 Scene Anymore, Which Suits Me Fine.”

DISC REVIEW “OLD EYES, NEW HEART”

「私たちはますます個人主義になり、自分の内面や感情に焦点を当てるようになっている。その良い面は、人々が自分の課題や悩みをより自由に共有できるようになったことだと思う。また、世界のグローバル化は多様な文化を促進し、それはメタルにも当てはまる。メタルシーンは18~25歳の白人男性だけのシーンではなくなっているの。私にとっては素敵なことだわ。みんな自分の経験を書く傾向があるからね」
ノルウェーのメタル・バンド、MADDER MORTEM とそのボーカル Agnete M. Kirkevaag のドキュメンタリーが話題を呼んでいます。彼女は、ステレオタイプなイメージに取り憑かれていたメタル世界で過食摂食障害と闘い、内なる悪魔と闘うために手術を受けることを決意します。新曲のレコーディング、ヨーロッパ・ツアー、オスロでの元メンバー全員によるライブなど、バンド結成20周年記念の年に撮影した本作は、そうしたバンドの日常を追いながら内なる悪魔、スカンジナビアの文化的規範、イメージに取り憑かれたメタル世界との齟齬と葛藤を巧みに描いていきます。
「私にとっては、ブラックメタルの音楽的アプローチの一部、特にダーティなサウンドと雰囲気が好きだった。でもね、シーンの半ファシズム的、人種差別的な側面は本当に好きではなかった。社会不安を抱えた18歳の男たちが自分たちのことを “エリート” だと言っていたのよ。バカらしく思えたわ。女性として、そのシーンには私が興味を持てるような部分はなかった。私が感じたところでは、自己主張の強い女性ミュージシャンが活躍できる場はほとんどなかったと思うわ」
“私たちは社会やメタル・エリートの中では負け犬かもしれない。でもね、負け犬は負け犬なりに吠えることができるのよ” はみ出し者にははみ出し者の意地がある。社会とも、メタルの伝統ともうまくやれなかった Agnete が、いかにして世界中のファンに届く感動的な音楽を生み出したのか。それはきっと、21世紀に花開いたメタルの多様性に対する寛容さ、そしてメタルに宿った “回復力” と密接に関係しているはずです。そう、もはやメタルは限られた “メタル・エリート” だけのものではないのですから。ドキュメンタリーのタイトルは “Howl of the Underdogs” “負け犬の遠吠え”。しかし、もはや彼女は負け犬ではありませんし、彼女の声は遠吠えでもありません。
「このアルバムは父に捧げられたものなんだよ。彼の思い出を称えるには、それが一番だと思った。彼はいつも私たちの活動を誇りに思ってくれていたし、このアルバムには彼のアートワークも入っているから、とてもしっくりきたの。でも、同じような喪失感を感じている人たちが、この音楽の中に慰めを見出すことができれば、それが最高の結果だと思う。だれかに理解されたと感じることが最高の慰めになることもある」
回復力といえば、喪失からの回復もメタルに与えられた光。MADDER MORTEM の中心人物 Agnete と BP 兄弟は多才な父を失い悲嘆に暮れましたが、その喪失感を最新作 “Old Eyes, New Heart” で埋めていきました。バンドのゴシック、ドゥーム、プログレッシブ、ポストメタル、アメリカーナとジャンルの垣根を取り払った “アート・メタル” は、あまりにも美しく、哀しく、そして優しい。そうして亡き父の描いた絵をアートワークに仰ぎながら、MADDER MORTEM は、同様に喪失感に溺れる人たちが、この音楽に慰めを、光を見出すことを祈るのです。
今回弊誌では、Agnete M. Kirkevaag にインタビューを行うことができました。「音楽は精神を高揚させ、慰める最も偉大なもののひとつであり、耐え難いことに耐えるための方法だと思う。そして願わくば、私たちの周りにある醜いものすべてに美を見出す方法でもあればいいわね」 どうぞ!!

MADDER MORTEM “OLD EYES, NEW HEART” : 9.9/10

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NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【NOSPUN : OPUS】


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH NOSPUN !!

“The Truth Is That We Write Prog Music Because It’s What We Love. Basically We Are Writing Songs That We Want To Hear.”

DISC REVIEW “OPUS”

「10代の頃に DREAM THEATER を聴きはじめたんだけど、彼らの音楽はプログレッシブ・ミュージックを作り始めるという僕たちの決断に間違いなく影響を与えたんだ。だからこそ、自分たちの楽器を使いこなすために本当に時間をかけなければ、彼らのような音楽は作れないと思っていた。何時間も、何時間も練習して、今に至るんだよ!」
SNSやストリーミングの伸長でインスタントになった音楽世界。さらにAIまでもが音楽を生み出し始め、すべてが “ワン・クリック、ワン・セカンド” を要求される現代の音楽世界において、プログレッシブ・ミュージックは、主流とは真逆の異端です。長時間の練習、長い産みの苦しみを経ることでしか誕生し得ない、複雑で知的な音楽は今や風前の灯なのかもしれません。
「僕たちがプログを書くのは、自分たちが好きだからという部分が大きいね。だから基本的には、自分たちが聴きたい音楽を書いているんだ。そして、このスタイルが好きな人が他にもいることを期待して、想定して、その曲を世に送り出す。例え誰にも聴いてもらえなくても、僕たちはプログをやるだろう。だからこそ、それを楽しんでくれる人がいるというのは、本当にうれしいことなんだ!」
しかし、だからこそ、現代でプログレッシブ・ミュージックを綴る音楽家には本物の情熱、本物の才能が存在します。苦労のわりにまったくあわない報酬や名声。その差額を埋めるのは “好き” という気持ちしかありません。アメリカに登場した NOSPUN は、自分の愛する音楽を徹底的に突き詰めながら、プログの延命措置に十分すぎる電気ショックをお見舞いしました。
「予想外のことをやってみようというバンドとしての意欲。メタル・バンドが曲の途中にポルカ・セクションを入れるのは普通じゃないけど、僕らにとってしっくりくるなら、やってみたいんだよね。”Earwyrm” のスキャット・セクションは、実はスタジオでふざけていて、そのまま使おうと決めただけなんだ」
明らかに、NOSPUN の音楽は DREAM THEATER と SYMPHONY X、つまりプログ・メタル二大巨頭の遺伝子を平等に受け継いでいます。例えば、”Change of Seasons” で唸りを上げる Russell Allen のような “夢の共闘”。それを体験できる機会は、実はこれまでほとんどなかったと言えます。なぜなら、多くの後続たちは巨頭のどちらかに寄っていたから。その点、NOSPUN の旋律と重さ、テクニックとカタルシス、伝統とモダンのバランスは実に優れていて、HAKEN のやり方とつながる部分も見え隠れします。
一方で、NOSPUN はシリアスなムードが支配するプログ世界に笑顔をもたらし、その意外性をトレードマークとしていきます。突然のポルカ、突然のディスコ、突然のスキャット。彼らの目指す “予想外” は、クリシェと化したプログ・メタルの定型に風穴を開け、リスナーに新鮮な驚きを届けます。そう、彼らはそもそも、スプーンをないものだと思いたいのです。
用意された物語も、この “Opus” に相応しいもの。”若い作曲家が両親や他の入居者たちと下宿している。傑作を作曲するという破滅的な強迫観念が、彼と世界や周囲の人々とのつながりを断ち切ってしまう。ある日下宿人が殺されているのが発見される。徐々に他の入居者も姿を消し始め、ついには彼はこの家にひとり閉じ込められる。彼を取り巻く宇宙は崩壊し、残されたのは彼と彼の傑作、そして家だけとなる。そのすべてがひとつの球体の中に閉じ込められ、孤立した空っぽの宇宙となる。そして彼の前に見覚えのある目が現れ、犠牲を払わなければならなくなる” 彼らの “傑作” は世界に評価されるのでしょうか?それとも、小さな球体に閉じ込められたままなのでしょうか?
今回弊誌では、NOSPUN にインタビューを行うことができました。「映画 “マトリックス” の中で僕らが好きなシーンのひとつに、ネオが予言者のもとを訪れるシーンがある。そこには小さな修道僧の子供がいて、心でスプーンを曲げているんだ。ネオがスプーンを曲げようとすると、その子供が “スプーンを曲げようとするのではなく、スプーンなど存在しないという真実を悟るんだ” という意味のことを言うんだよ。そこで僕たちは、その “No Spoon” の部分をユニークな綴りにして、ネット上で簡単に見つけられるようにしたんだ」 どうぞ!!

NOSPUN “OPUS” : 10/10

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COVER STORY 【NECROPHAGIST : ONSET OF PUTREFACTION / EPITAPH 25TH, 20TH ANNIVERSARY】


COVER STORY : “ONSET OF PUTREFACTION” / “EPITAPH” 25TH, 20TH ANNIVERSARY

“I Don’t Think Every Death Metal Maniac Should Buy My Album, But Anyone Who Is Tired Of All These Average Shit, Where One Band Sounds Like The Other.”

NECROPHAGIST

「”ネクロ “を名前に持つバンドは多すぎる。でも、1988年当時、”ネクロ” を含む名前を選んだバンドはほとんどなかった。今となっては、そんなことをするバンドはクソつまらないし、バカげてる。
僕らの名前が “Necrophagist” だからといって、世間からつまらないと思われるのは良くない。”Necropha-gist” は、音楽にのみ優先順位を設定し、それを改善し、独自の新しいスタイルのデスメタルを開発するためのバンド。だから僕のせいにしないで、ネクロを使っているデスメタル・バンドの “新時代” のせいにしたいね。君たち、想像力は一体どこにあるんだ?」
今からちょうど四半世紀前。Muhammed Suiçmez は、ギターとマイクとコンピューターを持ってスタジオに閉じこもり、史上最もユニークで影響力のあるメタル作品のひとつを録音しました。今にして思えば、 “Onset of Putrefaction” が1999年という前世紀に発表されたことが信じられません。音楽的なスタイルもプロダクションも、明らかに未来。案の定、この作品は、来るべき現代のテクデス・ワールドほとんどすべての規範となったのです。

「リハーサル・ルームで録音したんだけど、プロフェッショナルなサウンドに仕上がったよ。レコーディングに使った機材もプロ仕様。ミックスも最終的に、その道のプロと一緒にやったんだ。だから、リハーサル室で作ったとは思えない仕上がりになっている。そう、とても大変だったんだ。時間も神経も使ったけど、それだけの価値はあったよ」
2000年代に入る前、SUFFOCATION のようなデスメタル・バンドは、ハイゲインの氾濫とカオティックなエネルギー、そしてブルータルな重量が本質的ににじみ出る音楽を生み出していました。ただし、彼らのデスメタルはテクニカルな複雑さとは裏腹に、オーガニックな人間味が多く残されていたのです。NECROPHAGIST は、テクデスを次のステップに進め、より臨床的で冷たく、マシナリーで極めて正確なスタイルを打ち立てました。
「多くの人はデスメタルにおけるドラム・マシーンを好まないが、ドラム・ラインをプログラムするのに3週間、毎日12時間かかった。その結果、このCDはほとんど自然なサウンドになったんだよ」

それまでもテクデスは、もちろんある種の几帳面さを好む傾向がありましたが、”Onset of Putrefaction” は、強迫的な細菌恐怖症と例えられるほどに、無菌状態の完璧主義が貫かれています。プログラムされたドラムは、ロボットのような正確さと非人間的な冷たさを加え、偽物のように聞こえる以上にデスメタルのエッジとAIの無慈悲を獲得するのに役立っています。一方で、テクデスの命ともいえるリフは、当時の常識以上に可動性が高く、慌ただしく、細部まで作り込まれていました。さらにそれらはすべて、ディミニッシュ・アルペジオ、ホールトーン・スケール、クロマティック・ムードといった異端を最大限に活用して、流動的かつリズミカルな魅惑的な”音楽” に加工する魔法に覆われています。
そんな高度に機械化された無菌室は、デスメタル本来の穢れを祓い、過度に衛生化されるという懸念を、次から次へと収録される楽曲の超越したクオリティで薙ぎ払っていきます。一方で、ステレオタイプな低いうなり声のボーカルは、単に楽曲の意味を伝えるものとなり、リズム楽器の一つとして有効に機能しています。
「歌詞のほとんどは昔の CARCASS のようにゴアなテーマを扱っているけど、もっとセンスのあるものもある。これらはより新しいものだ。新しい歌詞はもっと哲学的なものになると思う」

NECROPHAGIST(ギリシャ語で「死者を喰らう者」の意)は、トルコ系ドイツ人のギタリスト/ボーカリスト Muhammed Suiçmez が結成し、フロントを務め、彼がすべてを決定するワンマン・バンドでした。
彼らのデビュー・アルバム “Onset of Putrefaction” は、Hannes Grossmann が制作したドラム・サンプルを使った新版が作られています。
「僕はドイツで生まれたので、1975年からここに住んでいる。ドイツの社会は奇妙で退屈だ。大学を卒業したら、この国を離れると思う。母国にはあまり行ったことがないし、トルコとの関係が希薄なんだ。
偏見を感じることはある。人々は異なる文化を恐れ、偏見を持ち、奇妙な振る舞いをする。とはいえ、僕はここで何人かのドイツ人と友好関係を築いた。彼らとの間には常に距離があるけれどね。私の親友は非ドイツ人であることを明言しなければならないよ。ドイツ人は、僕を自分自身や友人とは異なるものとして理解しているのだ」

そうしたある種の “孤高” と “孤独” の中でも、Muhammed は2010年の解散までに Christian Münzner, Hannes Grossmann, Marco Minnemann, Sami Raatikainen といったドイツの才能を次々と発掘し、彼らが OBSCURA のような次世代の旗手となっていったのはご承知の通り。そうした人を活かすアルバムとして発表された2004年の “Epitaph” は、その完璧な仕上がりとは裏腹に、文字通りバンドの墓標となってしまっています。アルバムでは、Muhammed自身も、7弦と27フレットを備えた新しいカスタムショップのIbanez Xiphosギターで攻めていました。唯一無二であることにこだわるが故の、消滅。
「昔から他のバンドをコピーするバンドはいたし、オリジナルなバンドもいた。その点では何も変わっていないが、レーベルが生き残るために利益を上げる必要がある限り、彼らは手に入るものは何でもリリースするだろう。少なくとも一部のレーベルはそうだ。特にアンダーグラウンドの小さなレーベルは、今でも利益を最も必要としている。それがビジネスであり、ある程度は理解できるが、これでは音楽の発展はない。
NECROPHAGIST は主に自分自身のためにやっているが、もちろん、人々が我々の音楽に影響を受けていると聞くのは光栄なことだ。
音楽的には、確かに僕らのルーツはデスメタルの最初の時代にある。それを除けば、僕たちはどんな音楽にもオープンだし、みんなかなり多様な音楽を聴いている。自分のことしか言えないけど、マルムスティーンのソロ・スタイルはかなり影響を受けていると思う。あとは、パワーメタルは影響を受けているが、それはある程度までだ。SONATA ARCTICA 以外によく聴くパワー・メタル・バンドは思いつかない。とにかくさまざまな角度から影響を受けてもいるよ。重要なのは、自分たちの音楽がどう聞こえるかだ」

“Onset of Putrefaction” から25年。”Epitaph” から20年。年月を経た2枚のアルバムは、今やテクデスの聖典として、様々な後続に崇め奉られています。
「まあ、すべてのデスメタル・マニアが僕のアルバムを買うべきだとは思わないけど、他のバンドと同じように聴こえるような、平均的なクソにうんざりしている人なら誰でも買うべきだよ。申し訳ないけど、バンドはギターやドラムスティックを持てるようになったら、すぐにCDをレコーディングするべきではないと思うんだ。だから、NECROPHAGIST が10年前から存在し、音楽が年々向上していることを知っておいてほしい。新しい、あるいは違ったスタイルの音楽を聴いてもらいたいんだ。”Onset” が他のバンドに似ていると言っている人は、みんなよく聴いていない。だから、この音楽は間違いなくデスメタル・マニアのために作られたものだけど、ブラストビートやダウンチューニングのギターだけがここにあるわけじゃないんだ」

デスメタル・アルバムにおいて、ラジオ・ソングのように、すべての曲が他の曲とまったく違うと自信を持って断言できることがどれほどあるでしょう?NECROPHAGIST は魔法の公式を見つけたと思い込んで、それを繰り返し、同じようなサウンドの濫用になるようなバンドではありませんでした。すべての異なるトラックを全く異なる雰囲気で収録し、そのどれもが地獄のようにキャッチーであるという最も野心的な目標を達成してきました。つまり、彼らが残した2枚の聖典はジャンルを超越し、デスメタルの専門家でない人にとっても潜在的な興味対象であるという特殊性を持つ、史上数少ない真に偉大なアルバムとなったのです。
「ハードドライブのどこかに新しいアルバムは録音してある。でも今はもうバンドをやる気はないんだよな」
これが2019年、Muhammedからの最後の便り。今はエンジニアの資格をとって BMW でエンジニアとして働いているとも噂されていますが、このアニバーサリーの年に何か動きはあるでしょうか…


参考文献: MASTERFUL MAGAZINE : NECROPHAGIST

NIHILISTIC HOLOCAUST: NECROPHAGIST

ZWAREMETALEN Interview

COVER STORY + NEW DISC REVIEW 【BERRIED ALIVE : BERRIED TREASURE】


COVER STORY : BERRIED ALIVE “BERRIED TRASURE”

“Balenciaga Or Moschino Are Great Examples In Fashion For Being Incredibly Technical Clothing That Doesn’t Take Itself Too Seriously. That’s Really What We Want The Most In Music, To Connect With People.”

BERRIED TREASURE

「Charles Caswell というギタリストがいる。彼は奥さんと BERRIED ALIVE というデュオをやっている。彼は、私が今まで聴いた中で最もクレイジーなギターを弾いている。彼のプレイスタイルは、私がこれまで聴いた中で最も速いプレイヤーなんだ」
ギターレジェンド Joe Satriani がこれほど興奮して紹介するギタリスト。その人物が凡庸なはずはありません。そして当然、世界中が注目します。そのギタリストとは、BERRIED ALIVE というデュオでの活動で知られる Charles Caswell です。
BERRIED ALIVE は、Charles と妻の Kaylie Caswell によるデュオ。彼らのジャンルを説明するのは少し難しいかもしれません。一応、彼らのウェブサイトには、”トラップ、ハードロック、メタル、ヒップホップ、アバンギャルドの要素を取り入れたEDMポップ” のようなものだと書かれています。
Satriani は興味深い比較をしながら、こう付け加えました。
「BERRIED ALIVE の音楽は、Tosin Abasi とかと同じくらい複雑だ。しかし、彼が何を選択し、どのように作曲するのか…それは他の誰とも違っている。人生は挑戦だ。そうして若いギタリストたちは、今この現代を生きることがどういうことなのか、私たちに教えてくれているんだ。美しいことだよ。インスタグラムを見に行って、スマホの前で誰かが僕が弾けないものを弾いているのを見るたびに、”やったー!” って思うんだ。誰かがギターを前に進めているんだからね!」
Satriani の賛辞に、Charles も応えます。
「Joe Satriani は偉大なレジェンドだ。僕が初めてギターを手にして “Surfing With The Alien” を弾いて以来、多大なインスピレーションを受けてきた人物からこんな優しい言葉をかけてもらえるなんて、信じられないほどうれしくて勇気づけられるよ!」

BERRIED ALIVE の芸術的な活動は、2012年に “音楽ベンチャー” という冒険的な形態で始まりました。それ以来、2人はレコードやシングルを精力的にリリースしています。現在までに、BERRIED ALIVE のカタログは、7枚のスタジオ・アルバムと30枚以上のシングルにまで及んでいるのです。その音楽はたしかに、トラップ、ハードロック、メタル、ヒップホップ、アヴァンギャルドの要素を取り入れたEDMポップという表現がぴったりなのかもしれません。バンドの大胆不敵で感染力のある楽曲、まばゆいばかりの音楽性、そしてシアトリカルなセンスは、YouTubeの総再生回数950万回、Spotifyのリスナー数12万人以上という数字に直結し、多くのリスナーを魅了しています。そして、Satriani のみならず、RAGE AGAINST THE MACHINE の Tom Morello, AVENGED SEVENFOLD の Synyster Gates, MOTLEY CRUE の Tommy Lee といったアイコンたちからの喝采までも集めているのです。
「僕たちは普段、いつもギターを弾いているわけでもなく、ただ好きな音を見つけているだけなんだ。ギターで音を模倣する方法を学んだから、音を見つけたら、それがどんな音なのか、たとえクレイジーな音のドラムか何かであっても、それを自分なりに再現することができる。
自分自身や自分たちに対して批判的になるのは好きではないんだ。厳しいやり方は健康的じゃない。僕はギターに3時間、ボーカルに3時間、作曲に2、3時間、マーチャンダイズやソーシャルメディアに2、3時間といった具合に。グッズの注文もすべてこなさなければならない。ギターを弾いているだけじゃなく、何かを作り、リハーサルをし、人々とつながる。運動などで心身の健康に気を配りながらね。1日の中で少しずつでもすべてのことをやっていれば、終わる頃にはかなり満足感があるし、自分を過小評価しなかったように感じる」

重要なのは、彼らがただ驚異的で “リディキュラス” なバンドであるだけでなく、”音楽ベンチャー” という形態をとっている点でしょう。BERRIED ALIVE は、冒険的な音楽と多感覚的なグッズの厳選された世界を構築していて、最近ではビール会社との提携までも行っています。
「空港のレンタカーで、カウンターのお姉さんにおすすめのお店を聞いたんだ。彼女は Heathen Brewing を勧めてくれた。料理も雰囲気もビールも気に入った。数年後、彼らから連絡があり、ビールのコラボをしないかと誘われた。僕たちは彼らの醸造所で会い、数ヶ月かけてすべてのロジスティクスを考え、ビールを造った。かなりクレイジーだったよ!
乳糖を混ぜて、ろ過した後の穀物をすくい取って…僕たちがワインやシャンパンが好きだと知っていたので、自家ぶどう園のぶどうを収穫してくれて、自家栽培のぶどうを使うことができた!醸造所の文化にも本当に感化されたね。みんな協力し合い、助け合うことを厭わないから、僕が音楽の世界で経験してきたことと比べると新鮮だ。Heathen とも将来的にもっとコラボできる可能性がある。そこから生まれたビールの名前が、アルバム “The Mixgrape” にちなんでいるんだ」
マーケティング用語で言えば、BERRIED ALIVE 社は気まぐれでカラフルなライフスタイル・ブランドであり、彼らが提供する商品メニューは拡大し続けているのです。ただし、創業者である Caswell 夫妻は、それほど計算高くはありません。ジャンルにとらわれない音楽、遊び心がありながらも高級感のある服、巧みなマーケティングのアイデアの裏には、自由奔放な芸術的対話がつねにあります。
「僕たちは聴かれて、着られて、berry だけに味あわれるものなんだ (笑) 。すべての感覚にクリエイティブなものを提供したいんだよ!最近、友人が DEFTONES のコンサートに行ったとき、少なくとも10人以上の人が BERRIED ALIVE のグッズを身に着けていて、とても目立つから気づいたと言われてね。たしかに目立つ!僕たちはあまり外に出ないから、反響を知るのはとても楽しいよ」

BERRIED ALIVE の服は明るくポップで遊び心があり、常に人気のあるイチゴと十字架のデザインがトレードマークです。Supreme を彷彿とさせる高級ストリートウェア・ラインとして作られていますが、それは夫妻の甘く歪んだ心と密接に結びついているのです。
2人は、曲作り、服のデザイン、商品ラインにそれぞれ意見を出しながら、流れるようにいつも一緒に創作しています。Charles は、BERRIED ALIVE の楽曲のプロデュース、ミックス、マスタリングを担当し、ブランドとバンドの予算を洋服や没入型ビデオ、将来の作品に充て、Kaylie が歌詞、服のデザイン、ベースラインを担当し、一緒にマーケティング・コンセプトを考えています。実は、そうした阿吽の呼吸には確固たる理由がありました。
BERRIED ALIVE の幻想的な世界のはじまりは、おとぎ話のような出会いにまでさかのぼります。2人が出会ったのは中学1年生のときでしたが、付き合い始めたのは高校に入ってからでした。付き合い始めて早々、Charles は Kaylie がファッションの溢れんばかりの才能と適性を持っていることに気づいたのです。
当時、Charles はバンドやツアーで演奏するテック・メタル・ギターの魔術師 (あの REFLECTIONS にも在籍していた) でしたが、バンドでのドラマや苦労から離れ、孤独なアーティストへと進化していきました。そんな中で、BERRIED ALIVE という音楽団体は当初、Kaylie が提案したサイドプロジェクトのようなものだったのです。
「名前は当時のメタル界にあったダークな名前をもじったダジャレのようなものだったわ。私は芸術としての服がずっと好きだったの。私たちは本当に小さな町の出身で、そこではみんな同じような服を着ていた。そこで私が着ている服について人々が話しているのを耳にすることがあって、それは必ずしも良いことばかりではなかったのよね。でも、服装は自己表現で、人と話す前にその人について知ることができる大事なアイデンティティ。同時に、いつでも脱ぐことができる、表面的なものでもある」

2人の美学はやがて融合し、既存のバンドTシャツを超えたユニークな商品ラインを開発しようと試みます。これが BERRIED ALIVE のアパレル・ラインとなっていきました。彼らがこだわるのは、”深刻になりすぎないこと”。
「僕たちがやっていることはとても深い要素を持っているけど、決して深刻に考えすぎることはない。深刻になりすぎると、どんなメッセージや音楽からも命が吸い取られてしまうと思うからね。それをうまくやっている芸術は他にもあるよ。ドラマを見ても笑える瞬間があるし、漫画を見ても絵が美しいと思う一方で笑ってしまう。
バレンシアガやモスキーノは、ファッションの世界では信じられないほどテクニカルな服でありながら、深刻になりすぎず、時には派手であることに感動するという素晴らしい例だね。派手でありたいときもあれば、ソフトでありたいときもある。それが僕たちが一番望んでいることで、結局は人々とつながりたいんだよ」
そうして今日に至るまで、BERRIED ALIVE は、ビジョンを持ち、それを追求するために努力した2人のマーケティング能力によって、自立したビジネスとなっています。彼らの成功はすべて、直感と芸術的ビジョンに基づくもの。
「レコード・レーベルを持ち、ツアーをするという伝統的な道を歩むことなく、自分たちの夢を叶えることができたのは、大きな成果だと思っているよ。僕たちが一緒にこの仕事をできるのはとても意義深いことだし、フルタイムの仕事になったのはとても特別なこと。とても感謝しているんだ」

実際、Charles がかつてのようにツアーとレコーディングで疲弊するメインストリームの音楽業界にまだいたとしたら、彼らの夢は叶わなかったでしょう。
「あのころ僕はツアー生活をしていて、いつも大事なものから離れていて、自分のベッドで寝たことがなかった。”Melon-choly” は、”スマホを見ながら、君に電話できたらいいなと思う” という一節から始まったんだけど、この曲を書いたとき、その生活の大変な部分をたくさん思い出していたんだ。
今はインターネットがあるから、内向的な人や、何らかの理由で家族と家にいなければならない人でも、アートを作ったり音楽を作ったりできる方法がある。ある意味 DIY でパンクだよね。Kaylie はヴィヴィアン・ウエストウッドが大好きなんだ (笑)。
僕もパンク・ロックがきっかけでギターを弾くようになった。そうやって楽器を愛するようになったし、ルールなんてクソくらえで、みんながやれと言うことの反対をやればいいんだと学んだ。それが BERRIED ALIVE の本質なんだ!僕たちがツアーやライブをやらないことは、ギター界の門番たちを怒らせた。でも僕たちは気にしていないし、それは何の問題にもなっていない」
結局、彼らが求めるのは好きな人たちとつながること。
「ギター世界を敵に回してもかまわないさ。僕らがレコーディングしたものをスピードアップしてるなんていう陰謀論者のいる世界なんだから (笑) 。ボブ・ディランじゃないけど “Go Where They’re Not”。年々、それが身に染みていると思う。僕はただ、歌がうまくなること、より強力な曲を書くこと、そして人々とつながることに集中するようにしている。目標のひとつは、音楽が上手になることとは関係ないレベルで、もっと多くの人とつながろうとすることだ。以前はCNCの機械工で、調剤薬局でも働いていたんだけど音楽とはまったく関係のない、信じられないほどクールな人たちによく会ったよ。音楽の趣味よりも、性格が一致する方が話したいと思うんだよな」

とはいえ、Charles はギターに対する情熱をなくしたわけではありません。
「スタイルは本当に様々。とてもアバンギャルドなんだ。頭の中にアイデアが浮かんだら、それを演奏できるようにするためにまったく新しいテクニックを編み出さなければならないこともある。ある日は超クレイジーなテクニックを駆使した曲を書き、次の日はアコースティックで伝統的な構成のシンガーソングライターの曲を演奏する。完全に自由な表現なんだよ。
ギターや音楽に何か新しいものをもたらすことは、僕にとって本当に重要なことなので、作曲や練習をするときは、今まであまり見たり聴いたりしたことのないようなものになるよう最善を尽くす。そうすることで、より多くの人に聴いてもらえるから。僕は自分の音楽にできる限りの価値を込めたいと思っている。そのためには、楽器をいじったり、練習したり、プロデュース・スキルを磨いたりすることが必要なんだ」
そして、音楽世界を改革し続けることにも熱心です。
「僕たちはエルトン・ジョンが大好きで、マーチャンダイジングをしながらよく聴いているよ。それから SPARKS!僕が彼らにインスパイアされたのは、80年代、もしかしたら70年代後半かもしれないけれど、彼らが自分でレコーディングする方法を学んだからなんだ。当時は前代未聞だった。今では誰でもできる。でも、そんな前例がなかった時代に努力を重ねたことは先進的だし、今もそれを続けているのは超クールだよ!
彼らは自分たちを改革し続けている。何年もかけて、いろんなフェーズやスタイルを作り上げてきた。Jimi Hendrix もそう。彼がギターで話すことに興味を持たせてくれた。それかOzzy Osbourne, PANTERA, BLACK SABBATH でメタルにのめり込んだ。今はあまり音楽を聴いていなくて、オーディオブックや瞑想的なものを聴いている。友人の曲がリリースされたときなどはチェックするけど、ほとんどは頭の中でクレイジーなものを作っているだけだよ!(笑)」

彼らの理想の音楽世界には、エゴも嫉妬も憂鬱もありません。
「僕たちは自分たちが世界最高のギタリストであることを証明したいわけじゃない。もし普通の仕事に戻らなくてはならなくなったとしても、僕らが作る音楽に十二分に満足しているし、お金を稼ぐためにそれを変えようとは思わないから、全然平気だよ。お金儲けのために自分たちの音楽を変えようとは思わない。
自分たちがやっていることにとてもポジティブなメッセージを持つようにしている。そしてみんなにも、自分たちがやっていることが何であれ、自分たちの芸術性や創造性だけで十分だと感じてほしいんだ。メタル世界では、ポジティブであることは一般的ではないけれど、それが僕たちの気持ちなんだよ」
では、BERRIED ALIVE にとっての “成功” とは?
「”ヒーローが友達になったとき、お前は到達したんだ “って父が言っていた。それは究極の成功だ。そもそも自分がやっていることをやりたいと思わせてくれた誰かに認められることがね。
そうしたサポートは、誰かにひどいことを言われたとしても、それを帳消しにしてくれる。最小限のストレスの中で、アートを通して自分たちを維持できることだけが望んでいたことなんだ。誰が見ているかわからないし、誰とつながるかもわからない。数年前には、こんな人生になるとは想像もしていなかったからね!」

BERRIED ALIVE Bandcamp

参考文献: CURIOSITY SHOT:Berried Alive | Feature Interview

OUTBURN:BERRIED ALIVE: In Praise

NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【BLOOD COMMAND : WORLD DOMINATION】


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH YNGVE ANDERSEN OF BLOOD COMMAND !!

“Metal Is a Cult, Metal Is Definitely a Religion For Many Ans a Safe Haven For So Many Freaks And Outcasts. Its Really Beautiful.”

DISC REVIEW “WORLD DOMINATION”

「メタルやハードコア・パンクはまさにはみ出し者にとっては完璧な避難所だ。パンク・ロックに出会うまで、僕はずっとアウトサイダーだった。パンク・ロックは僕の人生を救ってくれたんだ。今では本当の友達がたくさんいて、僕の人生はまるでおとぎ話のようだ。こんなことができるようになったことを、毎日神に感謝しているんだよ。Nikki は間違いなく BLOOD COMMAND で自分の居場所を見つけた。Nikki はステージに立つために生まれてきたし、BLOOD COMMAND のフロントになるために生まれてきた。僕たちは死ぬまでこの仕事を続けるつもりだし、それができることをとても幸運に感じているよ。ライヴでフリークたちを見ると…涙が出るんだ」
人生で最も重要かつ困難なこと。もしかしたらそれは、自分の居場所を見つけることかもしれません。ノルウェーを拠点とする “デス・ポップ” バンド BLOOD COMMAND は、自らも彷徨い、傷つき続けた過去を振り払い、幸せな居場所を見つけることの大切さを音楽に込めています。
オーストラリアで PAGAN というバンドに人生をかけていたボーカリスト Nikki Brumen は、バンドの解散、親の死、そして恋人との別れによって心に大きな傷を負っていました。そんな時、遠く離れた地球の反対側、ノルウェーから一通のメールが届きます。
「フェイスブックだったと思うけど、ようやく彼女と連絡が取れた。”君に提案がある” と言うと、彼女は即座に “イエス” と答えたんだ。人生で最も幸せな瞬間だったね。彼女は今ではノルウェーに住んでいて、僕たちは一緒にプレイしたり、出かけたりしている。とても幸せだよ」
メールの送り主は Yngve Andersen。BLOOD COMMAND の中心人物。Yngve は Yngve で、2度目のボーカルの脱退に心が折れかけていました。音楽性はもちろん、互いに人生を取り戻す、回復しようとするもの同士、即座に意気投合。Nikki はすぐにスーツケースに荷物を詰め込んで、名前の発音もできない新たな友人の故郷、ノルウェーへと渡りました。自分の居場所は自分で見つける。彼らの場合、その媒介者が、メタルやハードコア・パンクだったのです。
「僕はノルウェーの極端なキリスト教福音派の分派出身のカルトの子供で、その全てが好きだったんだ。そのカルトの教育は僕に音楽を教え、幼い頃から楽器に触れさせ、他の人たちと一緒に演奏することを考えさせてくれた。彼らの教育にとても感謝している。あと、僕が普通でないことに慣れていて、のけ者にされることに慣れているという事実にも。それ以来、僕はカルトに魅了されている。少人数で、自分たちだけが真実であり、他の人たちは、論理的ではないにせよ、みんな間違っていると確信している、強く美しい集団だ」
居場所という意味では、Yngve は自らが育ったカルト集団と BLOOD COMMAND、そしてメタルやハードコア・パンクを重ねて見ています。社会からはぐれたのけ者たちにも、いえ、のけ者だからこそ安心できる居場所は必要。一風変わった “デス・ポップ” というアウトローの音楽で、お揃いのアディダスに身を包み、同じ夢を見られるメンバーで強く美しく生きていく。”World Domination” という新たな作品で居場所を見つけた彼らを遮るものは、もうありません。
「シーンの門番たちを怒らせるためにこのバンドを始めたかったんだよ。ハードコアにポップなものを混ぜて、邪悪なミックスを作ろうとね。当時はそれが新しいことだったけど、今はそういうバンドがたくさんいる。僕自身はハードコア・キッズであり、ポップミュージックが大好きだ。好きなアーティストの一人は Belinda Carlisle だしね」
野蛮なメタリック・リフとシャーベットのような甘いポップ・メロディーが溶け合ったサウンド・スープ。実際、彼らの “居場所” であるそのサウンドや形式は愛すべきエキセントリックを貫いています。
グラインド・コアの尺に凝縮されたエクストリーム・メタルのクランチと幼きメロディーは、テクノ、エレクトリック・ポップ、そしてジギーなギャングスタ・ラップと共に溢れんばかりのメルティング・ポットで撹拌され、散漫にも思える設計図はいつしか酩酊のような聴き心地を醸し出していきます。そう、カルトにはカルトの “世界を支配する” 譲れない美学が存在するのです。
今回弊誌では、Yngve Andersen にインタビューを行うことができました。「メタルはカルトだよ。そして、カルトがメタルのように大きくなれば、それを宗教と呼ぶこともできる。だからね、メタルは宗教なんだよ。多くのはみ出し者やマニアといった信者たちにとって、安全な天国のようなもの。本当に美しいよ」 どうぞ!!

BLOOD COMMAND “WORLD DOMINATION” : 10/10

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