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COVER STORY + NEW DISC REVIEW 【RAMMSTEIN : ZEIT】


COVER STORY : RAMMSTEIN “ZEIT”

I Just Try To Do What I Do Best. Every Musician Craves Freedom. I’m Just Blessed That I’ve Found It.

ZEIT

RAMMSTEIN のフロントマンとして四半世紀を過ごしていながら、Till Lindemann ほど謎めいたミュージシャンはいないでしょう。Lindemann の詩集 “Messer(ナイフ)” には死と腐敗、愛と狂気の黙示録的なイメージに満ちた示唆に富む文章がドイツ語とロシア語で書かれ、気の遠くなるような、荒涼とした美しいイラストが完璧にその謎めいた彼のイメージを補完しています。
しかし、芸術を極限まで追求することを生業とする Lindemann は、ページをめくるうちに、この作品に不完全なものを感じ、鋭いナイフを探し始めます。左腕を1センチほど切開すると、血のついた指紋をつけ、原稿の上に丹念に血を落とします。そうして、ようやくこの詩集を完全なものとしました。
「前はつまらなかった。だから、もっとカラフルにしたんだ」
Till Lindemann にはかつての共産圏と深いつながりがあります。1973年、10歳の時、東ドイツのユース水泳チームのメンバーとして初めてソビエト連邦を訪れました。その5年後、将来のオリンピック選手として期待されていた彼は、1978年にイタリアのフィレンツェで開催された欧州ジュニア水泳選手権大会に東ドイツ代表として選出されます。しかしその週の夜、ポルノ雑誌を売っている風俗店を探すために非常階段を降りているところをコーチに見つかり、代表チームから追放されてしまいます。
この逸話は、Lindemann にとって初めての権威との衝突であっただけでなく、今日まで彼を動かしてきた自由への本能的な憧れ、その初期の兆候だといえます。59歳のカリスマ・シンガーは、RAMMSTEIN のフロントマンとして背中に天使の羽、顔に火炎放射器をつけていないときは、自由詩を書いたり(”詩は魂の飛行だ” とかつて語り、創作過程を “檻” からの脱出に例えた)、釣り、狩り、料理、一人旅に、その自由を見出しています。そして、RAMMSTEIN と並行して行っている音楽プロジェクト LINDEMANN にも、同じような魂の飛行を見いだしているのです。

デスメタルの巨人 HYPOCRISY とワンマン・インダストリアル・クルー PAIN のフロントマンである49歳のスウェーデン人 Peter Tägtgren は、Lindemann との関係を「結婚みたい」と表現しています。Tägtgren の存在感と骨太のユーモアが、Lindemann のやや冷めた態度を和らげているのでしょう。
2015年にリリースされたデュオのデビュー・アルバム “Skills In Pills” の後、Tägtgren と Lindemann は “血の兄弟” となり、昔ながらの友情の儀式で腕を切り、血を混ぜ合わせました。
「2人とも精神的に病んでいるような気がする (笑)。でも、それに対処できるから、僕たちはとてもよく合うんだ。何でも分かち合えるし、分かち合いすぎるくらい。僕らにタブーはないんだよ」そう Tägtgren が朗らかに語れば、Lindemann も同調します。
「完璧なハーモニーを奏でている。RAMMSTEIN での経験から、誰かと一緒に仕事をするとき、友情が損なわれることがあると知っている。でも、私たちは夫婦のようにうまくいっている。残念ながら、性的な関係はないけど……」
レディーボーイやゴールデンシャワー、恋人の肥満を助長することで得られる性的満足感など、嬉々として倒錯した歌がこのプロジェクトの特徴。自発的で自由奔放なプロジェクトの性質は、最新作 “F&M”(ドイツ語で “女と男” を意味する Frau und Mann の略)にも引き継がれています。Lindemann の長女ネレがハンブルクで制作していたグリム童話 “ヘンゼルとグレーテル” の舞台化に際して、3曲の音楽を提供してほしいと依頼したことがこの作品の発端。父とわがままな継母に捨てられた幼い兄妹が、食人鬼の魔女によって森に閉じ込められるという伝説的な物語を、ダークな雰囲気で再構築した舞台に、Lindemann は「良い背景が揃っていた」と語ります。
「ヘンゼルとグレーテルの物語は、病的で残酷だが、とてもロマンチックでもあるからね。親と子の血統という考え方がある。誰が自分の子どもを好き好んで森に送り出すのか?そして、魔女が自分のオーブンに押し込まれる恐怖。グレーテルがラテックスやゴムのフェチだというアイデアを出して、主役にラテックスの衣装を着せたりして。実は、もう一曲お願いできますか?と言われてね。オンデマンドで作曲していたから、楽しくて、新しい仕事のやり方だったな。だから、LINDEMANN のセカンド・アルバムが完成するまで、自分たちがそれを作っていることを知らなかったんだ」

Lindemann が初めて全編英語で歌った前作とは異なり、このアルバムはドイツ語版。つまり、英語を母国語とする人々は、ティルの典型的な破壊的歌詞の意味を自分自身で解き明かして楽しむことを義務付けられています。そして Till Lindemann が関わるすべての作品に共通することですが、この作品には、深く入り込むことで得られる、より重いテーマが存在しています。”F&M” を聴いた人は、この暗いたとえ話、寓話の背後にいる男の真の姿を知ることができるのでしょうか?「”この人は誰だ?”と思うだろうね」
というのも、実のところ、Till Lindemann は、先見性を持つアーティスト、洗練された文人、そして非常に評価の高い企業家として羨望の的となる一方で、25年のキャリアを通じて、”火炎放射器を持ったあのドイツのクソ野郎” というおなじみの二次元的キャラクターを超えた生身の自分を明かすことにはあまりエネルギーを使ってこなかったという事実があります。かつては、インタビューで一言も口を開かないという恐ろしい事態も引き起こしています。
「噂や囁きが Till Lindemann を取り囲んでいる。そのうちのいくつかは真実であり、いくつかはおそらく真実ではない」
2019年、RAMMSTEIN は無題の7枚目のアルバムをリリースし、14カ国以上のアルバムチャートで首位を獲得。フロントマンは世界中のスタジアムで毎晩6万人の観客の注目を集める存在となりましたが、それでも彼はロック界のトップ層の中で最も謎めいた、秘密的なキャラクターの一人であることに変わりはありません。
もちろん、彼のやり方は完全に意図的なもので、RAMMSTEIN の挑発と痛烈な社会批判は、彼らの私生活を隠すために非常に効果的な煙幕ともなっています。同様に、LINDEMANN のレコードに収録されているグロテスクで X-raid なテーマに固執する人々の多くは、それを思いついた作詞家の性格について真に洞察し、見抜くことはできないでしょう。例えば、”Yukon” という曲は、 Lindemann の自然に対する畏敬の念を表していますが、そこにはほとんど注意が払われていません。その結果、Lindemann はどういうわけか25年もの間、もう一人の自分を目立たないように隠して生きていくことができました。「私は2つの人生を持っている」と、彼は英国での最後の主要なインタビューで認めています。

昨年、RAMMSTEIN がロストク (旧東ドイツ最大の港湾都市) の Ostseestadion(3万人収容)凱旋に先立ち、同市の日刊紙 Ostsee-Zeitung は、バンドの地元のヒーローである Lindemann を、彼が人生の形成期を過ごした小さな村で追跡する企画を立ち上げました。彼は今はベルリンに住んでいますが、メクレンブルクには赤レンガのコテージがあり、手入れの行き届いていない庭が魅力的な Lindemann の生家があるのです。しかし、その時、彼は留守。近所の人たちは口を揃えて「彼は一人でいるのが好きなんだ」「放っておいてあげてほしい」地域社会もまた、彼を守っていました。
しかし、Lindemann の母親である Brigit Lindemann(82歳)は、ゲーテやブレヒトなどの文学や絵画、そして自然を愛し、地元で創作活動に励んでいた Lindemann の穏やかな人柄を伝えてくれました。元ラジオ・テレビ局 NDR の文化部長だった彼女は、RAMMSTEIN のライブをオペラにたとえ、ニューヨークの伝説的なマディソン・スクエア・ガーデンで息子のステージを見たことを思い出しながら、誇らしげに語りました。
「何が一番印象に残ったと思う?息子たちの勇気よ!彼らは人がどう思うかなんて気にしない。まったく気にもかけないの!」
Lindemann は当時の東ドイツでの生活を振り返ります。
「私は幸せな子供時代を過ごした。母は共産党員で、父は作家で自由人だった…まあだけど、彼は子供向けの本を書いていたから、当局にとやかく言われることはなかったんだ。実質ロシアに占領されていたから、ロシア料理、ロシア映画、ロシア音楽をたしなみ、学校ではロシア語を読んだり書いたりした。隣人にはロシア兵がいて、子供のころはレモネードや食料を差し入れしたのを覚えている。あのころロシアは私たちの面倒を見てくれる兄のような存在だったんだ」

しかし、こうした牧歌的な子供時代から思春期になると、両親が離れ離れになり、そこから東ドイツの抑圧的な政治に疑問を抱くようになるのは必然だったのかもしれません。1980年のモスクワオリンピックを目前に控え、競泳のナショナルチームから追放された彼は、一般社会への復帰を目指しながらも、大酒を飲み、ストリートファイトに明け暮れたと回想しています。そんな反抗的な若者が、西洋のロックに夢中になるのはある意味必然でした。
「ラジオをよく聴いていたんだ。RAMMSTEIN のアルバムに収録されている “Radio” という曲は、実はそのことを歌っているんだよ。ラジオはとても大きなことだった。土曜の夜にロック・ショーがあると、みんなで集まって聴いていた。例えば LED ZEPPELIN を聴いて、”すごい!”と思うんだ。もちろん、いつか LED ZEPPELIN のメンバーが RAMMSTEIN のライヴに来ることになんて、あのころは想像もつかなかったよ。まあ、私にとっては今でも正気の沙汰じゃないね。
初めて買ったアルバムは DEEP PURPLE の “Stormbringer” で、他のアルバムと同じように闇市で手に入れた。1ヶ月分の給料で買ったんだ。学業を終えて最初の仕事に就いたときの給料は、月580マルク、今でいう10ユーロくらいだったからね。PINK FLOYD の “The Dark Side Of The Moon” が棚に並んでいたけど、誰も買えなかったのを覚えている。ライブにも行けないし、レコードも買えないし、本当に悲しかったね。だからある意味、自分の音楽を作るのは、クラシックな音楽を聴くより簡単だった」
このような環境を考えると、Lindemann の歌詞には逃避への憧れと、恥や謝罪や後悔から自由に生きるという考えへの過激な信念が、糸のように続いていることは容易に理解できるでしょう。

RAMMSTEIN は1994年、Lindemann が現在住んでいるベルリンのプレンツラウアー・ベルク地区にあるリハーサルスタジオで結成されました。バンド独自のサウンドを作り上げた6人のミュージシャンはそれまで、ハードロック、オペラ、ジャズ、クラウトロック、西ベルリンのアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの異端的、実験的サウンドを学んでいました。彼らはまた、怒りと、型にはまったものに対する憎悪、そしてすべての人々を動揺させ憤慨させるための直感的でしかし完全に意図的な才能を共有していたのです。
「私たちは問題を起こすためにここにいるんだ。私たちを嫌う人がいるという事実が好きなんだよ。私たちはアーティストで、アートはそういう感情を引き起こすべきだ」
あの頃、再統一されたドイツが新たなアイデンティティと折り合いをつける中、イーストサイド出身の6人のミュージシャンもまた自分たちのアイデンティティを発見していました。RAMMSTEIN の鍵盤奏者 Christian “Flake” Lorenz は、ベルリンの壁が崩壊したとき自分がどこにいたかを正確に覚えています。1989年11月9日、彼が所属するパンクバンド、FEELING B は西ベルリンでライヴを行っていました。彼らの出身である東ベルリンは物理的にも政治的にも思想的にも、何十年も西ベルリンから遅れて切り離されていました。
FEELING B は、退廃的で資本主義的な西側に対して、強硬な社会主義の東側が決して “怪物” ではないことを示すため、政府の活動の一環として、街を二分するコンクリートの障壁を通過してギグを行うことを許されていたのです。バンドが演奏していると、Lorenz は観客の中に見慣れた顔があるのに気づきます。
「俺たちは友達が入ってきたのに気づいたんだ。で、俺は言ったんだ、”彼らが西ベルリンにいるなんてあり得るのか?ありえないよ。彼らは壁を飛び越えたのか?” ってね」
その夜、壁が崩壊し、建設から30年近くたったその日壁はデモ隊に粉砕されたことを誰かが知らせました。それは記念すべき出来事でしたが、そのために FEELING B は家に帰ることができなくなりました。
「壁の穴は人で埋め尽くされていた。あまりの混雑に帰ることができなかったんだ。西ベルリンで一晩を過ごさなければならなくなった」


ベルリンの壁崩壊は、世界的に見ても第二次世界大戦後、最も重要な出来事でした。ドイツの再統一、ソビエト連邦の解体、冷戦の終結という連鎖を引き起こしたのですから。しかし、Lorenz と FEELING B にとっては、それ以上にマイナスの影響もありました。
「壁の崩壊は、とても多くのことを変えてしまった。東ドイツでは誰も東ドイツのバンドを聴きたがらなくなったんだ。”本物” が聴けるようになったからね。これまで禁止されていたことが、すべて可能になった。だから、みんな新しいものを作ろうとしたんだ」
Lorenz もその一人となります。わずか数年後、彼は FEELING B のバンド仲間であるギタリストの Paul Landers とドラマーの Christoph Schneider とともに、挑発的なサウンドと無粋な世界観がこの国の分裂した過去と結びつき、同時に明るく統一された未来のシンボルともなる新しいバンドを結成することになったのです。その名は RAMMSTEIN。最も大胆で、最も物議をかもす存在となるバンドの産声があがりました。
もう一人のギタリスト Richard Kruspe は、Lorenz と同じく、東ドイツで育ちました。しかし、Lorenz が社会主義政府の下での生活がわりと好きだったと言うのに対し、Kruspe は母国との関係がより複雑でした。
「生活にはトラブルやプレッシャーがなく、みんな生きていくのに十分なお金を持っていた。つまり、東ドイツについては、12歳まではそこで育つのが最高だったということだよ。10代後半に故郷のシュヴェリンから東ベルリンに移り住んだんだ。そこでは疑問を持たない限り、質問をしない限り機能する、非常に健全な社会という幻想を見せられたのさ」
二人とも、当時の首都東ベルリンには盛んなアンダーグラウンドの音楽シーンがあったということを認めています。権威主義的な東ドイツ政府は、バンドに音楽制作のライセンスを申請させ、そのプロセスで、8人か10人の観客を前にして演奏することを強要しました。ただし、FEELING B のようなアーティスティックで過激なバンドは、歌詞を変えたり、エネルギッシュな曲をトーンダウンさせたりして、オーディションをごまかすことができました。
「たくさんのバンドがいたけれど、みんな友達同士だったんだ。みんなが他の人と一緒に音楽を作っているシーンがここにはあった。僕はその考え方が好きだった。とてもエキサイティングで、たくさんの音楽が繰り広げられていたんだ」 と Kruspe は振り返ります。
壁が崩壊した後、すべてが大きく変わりました。それまでラジオと闇市でのみ聴くことができた西洋音楽が、突然爆発的に普及し、簡単に聴くことができるようになったのです。
「1989年に壁が崩壊したとき、それは僕たち全員にとって新しい時代の始まりだった。しかし、僕たちはすぐに、西側では誰も僕たちを待ってなどいないことに気づいたんだ。東ドイツの音楽産業の構造は完全に崩壊していた。東ドイツのバンドにはほとんど需要がなく、演奏の機会はすべて西側のバンドが独占していた。東ドイツのバンドは、その音楽が体制崩壊のきっかけとなったにもかかわらず、この新しい、徹底的に商業化された音楽ビジネスで足場を築くために、自分たちの位置を変え、再創造することを余儀なくされたんだ」

FEELING B の3人は、他の東ドイツのミュージシャンとジャムセッションを始めていました。Richard Kruspe、ベーシストの Oliver Riedel、そしてドラマーからボーカルに転向した Till Lindemann たちと。そして間もなく、この半ば本気のサイドプロジェクトは、他のすべてを覆い隠してしまうことになります。
Lorenz が Till と初めて会ったのは、東ドイツで行われたギグでした。FEELING Bはよく、観客の誰かに一晩泊めてくれないかと頼むことがあったのです。ある夜、Till も観客の中にいました。5つのベッド、あるいは1つのフロアが必要だという声が上がると、彼は自分の家をそのスペースを提供したのです。
「俺たちはそこに泊まってパーティーをした」と Lorenz は言います。「そして、時々、彼の家に遊びに行って、友達になったんだ」
元天才水泳選手からミュージシャンに転身した Lindemann は、FEELING Bと出会ったときシュヴェリンを拠点とするアートパンク・バンド、FIRST ARSCH で演奏していました。やがて彼は、RAMMSTEIN の種となる課外ジャムセッションに招待されるようになります。
「目的もなく、計画もなく、ただ2時間演奏するために集まったんだ。バンドというより、本業のバンドとは違うことをするためのミーティングだったんだ。セラピー・グループのようなものだった」と Lorenz は振り返ります。
この無名の集団が最初に書いた曲のひとつは、1988年に2機の飛行機が空中で衝突して70人が死亡した航空ショーの惨事、その舞台となったラムシュタインという町の名前にちなんだもの。このサイドプロジェクトについて噂が広まるにつれ、彼らは「ラムシュタインの歌」を持つバンドとして知られるようになったのです。
彼らはすぐにこの名前 Ramstein を採用し、さらに “M” を一つ追加しました。Ramm は英語に訳すと破城槌のような槌、”stein” は “stone” “石” の意。ラム・ストーンは、彼らのサウンドにぴったりな名前だったのです。
大晦日のパーティーのために買っておいた花火を使った火の演出も、初期には試みられていました。Lorenz はこう振り返ります。「あるとき、花火をショーに出したら、”これはすごい!” 思ったんだよね。それで、もう少し増やしてみることにした」

東ドイツの観客は、以前のバンドを知っていて、彼らを愛していました。しかし、西ドイツの観客は彼らが誰なのか知らず、新しくアクセスした西半分での初期のライブの多くは、人はまばらでした。ただし、バンドと母国とのつながりは、観客の数だけでなく、もっと深いところにあったのです。Lindemann は最初から母国語で歌うことにしていました。これは、彼らが学校で英語ではなくロシア語を教えられていたことも一因なのです。
「英語がわからない人たちに向けて下手な英語で歌っている東ドイツのバンドをよく見かけたよ。でも、本当に自分の感情を伝えたいのなら、自分の言葉で話さなければならないんだ。母国語と他の言語で自分の感情を真に伝えるのは不可能なんだから」
最初の曲を完成させるのは、長く、時には険悪なプロセスでした。RAMMSTEIN は民主主義を信条していたからです。食事をする場所から曲のサウンドに至るまで、すべての決定は6人のメンバー全員の同意が必要だったのです。
RAMMSTEIN のデビューアルバムは、1995年9月25日にドイツで発売されました。そのタイトル、”Herzeleid” は英語では “Heartbroken” と訳されますが、これはこのアルバムを書いている間、複数のメンバーが経験していた恋愛問題にちなんでいます。
「ガールフレンドと別れて、とてもつらかった」と Kruspe は振り返ります。「これほど感情的に辛いことはなかった。精神的に追い込まれたよ。同じような経験をした人でなければ、僕が感じたことを理解することはできないだろうね。Till も同じような経験をしていて、仲の良い友人だったから、彼と数カ月間一緒に過ごしたよ。お互いに助け合ったんだろうな。実際、他のメンバーも当時は個人的な問題に悩まされていたんだ。最初のレコードをリリースした後、何も起こらなかった。誰も僕らを知らないから、誰も買おうとはしなかったんだ。俺たちはただ演奏して、演奏して、演奏して、徐々に観客の数が増えていったんだ」
RAMMSTEIN は、あらゆる検閲を排除しようとしていました。他人からも、自分たちからも。当時共演していた CLAWFINGER の Zakk が振り返ります。
「彼らはそれをやりたいと言ったんだ。単純な話だ。最初はとても警戒していたんだ。軍服を着て、ドイツ語で歌い、”r”を連発するバンドだ。ファシストやナチスのバカになるんじゃないかと心配になった。そこで、ドイツ語を話す友人に彼らの歌詞の一部を翻訳してもらい、自分たちが納得できるように理解を深めたのさ」

1996年の中頃には、RAMMSTEIN は自分たちのツアーのヘッドライナーを務めるようになっていました。アンダーグラウンドのバンドがより多くの観客から注目され始めたという実感がありました。バンドの印象的なビジュアル・イメージがステージ上でフォーカスされ始めていたことも手伝って、6人の男が無名の時代は終わりを告げました。また、パイロ(花火)に対するこだわりも、ますます顕著になっていきます。当時、彼らが公式に許可を得ていたかどうかは定かではありません。少しばかり規則を曲げていたのかもしれません。でも、とにかく印象的だったのです。ヨーロッパは、旧東ドイツ出身のこの奇妙なバンドに注目し始めます。その見た目とサウンドは、それまでのバンドにはないもの。6人のメンバーは、RAMMSTEIN が多くの人々にとって理解しがたい存在であったことを最初に認めていました。この謎めいた、そしてしばしば誤解されるバンドにまつわるほとんどのことに狂気が存在するからです。
「RAMMSTEIN があれほどプログレッシブだった理由のひとつは、かつて僕たちが多くの検閲を感じていたからだ。だから RAMMSTEIN では、あらゆる検閲を取り除こうとしていたんだ。他人からも、自分たちからもね。だからみんな、”俺たちは気にしない” となったんだと思う」
その自由に対する一途な思いは、数年後、カルト映画監督のデヴィッド・リンチが1997年に制作した映画 “ロスト・ハイウェイ” のサウンドトラックに彼らを起用したとき実を結びます。突然、このおかしな訛りのある狂気のバンドは、全く新しいオーディエンスに開放されたのです。同年、傑作セカンドアルバム “Sehnsucht” によって、彼らはヨーロッパ全土でスターとなり、その後数年間、ステージ上での逮捕やナチズムに対する見当違いの非難、1999年に起きたコロンバインで起きた虐殺事件をきっかけとした誤った連帯責任など、あらゆる嵐を切り抜け、成功を収めたのです。

2001年初頭、RAMMSTEIN はまだ無名の存在でしたが、彼らの画期的なサード・アルバム “Mutter” は、バンドを、そしてメタルを永遠に変えてしまう金字塔となりました。
レザーと筋肉で身を固めた、世界で最も変態的なバンド。Kruspe と Schneider は、英語での質問を十分理解していたが、意図的に通訳を介して話しました。Lindemann は、まったく口をききませんでした。クラブ・ヒットの “Du Hast” を書き、ドイツ語で歌い、たくさんのパイロを使い、 KORN のUS Family Values Tour で巨大な潮吹きディルドを使ってステージ上でお互いをファックし問題になったバンド。彼らは十分に大きくなりましたが、未だ巨大ではなく、メタルの世界ではまだ外側にいました。Schneider が回顧します。
「他のバンドがやっていることの逆をやったんだ。もしメタル・バンドが長髪だったら、僕らは短髪にする。もし彼らがスポーツウェアを着ていたら、僕らはブーツや他のタイプの服を着るんだ」
“Mutter” は2000年の冬に作曲され、2000年の夏にレコーディングされました。ドイツでの成功はこのアルバムに大きな期待を抱かせ、制作費を増やし、南仏のスタジオ・ミラヴァルで仕事をすることを可能にしました。このスタジオは、PINK FLOYD “The Wall” を、JUDAS PRIEST が “Painkiller” を、AC/DC が “Blow Up Your Video” を制作した場所。
RAMMSTEIN はここで、自分たちのある部分を削ぎ落とし、ある部分を膨らませました。曲の絶対的なエッセンスに集中することで、できる限り雑念を排除し、将来の怠惰なジャーナリストに “ドイツの効率性” を退屈そうに持ち出す機会を与える、そんな芸術的な無駄をできる限り省いたのです。
バックボーンは以前よりもドゥーミーで重厚なリズムで構築され、より壮大な装飾を施すための頑丈な土台となりました。また、以前は機械が多くの力仕事をこなしていたのに対し、より人間的で汗臭いシュトゥルム・ウント・ドラングを輝かせることができるようになったのです。
「テクノやダンス指向のスタイルから離れたいと思ったんだ。もっと自然で、もっとロック・バンドのようなサウンドにしたかったんだ。だから、生ドラムに力を入れ、アコースティックギターで実験し、革新的なギターサウンドを見つけようとしたんだ。そして、初めてオーケストラを使ったね。もう機械の奴隷にはなりたくなかったんだ」

“Links 2 3 4″ のために、バンドが炭鉱で巨大な白雪姫のために働いている映像が作られました。
「グリム兄弟のおとぎ話は、時に残酷で暴力的な面もあるんだ。私たちはいわばドワーフで、この女性を慕う一方で、同時に憎んでいる。なぜなら、小人たちは彼女のために働き、薬を手に入れなければならないからだ。そしてその見返りとして、我々は彼女を見て、彼女の美しさを楽しむことができる」
より直接的となった音楽の性質とともに、”Mutter” の世界や暗さはより翻訳されやすいものとなりました。生き埋めにされた少年を歌った “Spielhur” という曲について珍しく語った Lindemann は、「生き埋めにされるというのは、人が持つ基本的な恐怖なんだ」
作品に曖昧さがなかったのは、バンドに向けられたナチスへのシンパシーへの非難に対処するためでした。
「ナチスと呼ばれることは、ドイツはまだ信用できないという “お父さん” 的な考え方の後遺症であるとも言える」
DEPESCH MODE の “Stripped” をカバーしたビデオで、バンドは帝国時代のドイツ人映画監督レニ・リーフェンタールの作品から、1936年のベルリン・オリンピックの映像を使うことにしていました。リーフェンタールは、1934年のニュルンベルク集会を悪名高いナチスのプロパガンダ映画 “Triumph Of The Will” のために撮影した後、ヒトラーの特別なお気に入りになっていたのです。これは完全に、芸術的な挑発を意図したものでした。しかし、誰もがそう思っていたわけではありません。
「あの状況に関して、僕たちは若くて素朴だったと言えると思う…マスコミに攻撃されて、とても無力だと感じた。でも、僕の目から見れば、僕たちは正しいことをしたんだ。僕たちは常に極端なことをやってきた。極端な文章、極端なショー、極端なやり方で行動し、常に挑発的であろうとしてきたんだ。僕たちの歌詞はさまざまな解釈が可能だけど、決して右傾化することはないんだよ。でも、もし様々に解釈できる歌詞を提示すれば、人々がそれを様々に解釈することを期待するしかない。僕らは意図的に挑発的なバンドなんだ。そして、我々の挑発の頂点は、もちろん、あのレニ・リーフェンシュタールのビデオだった。僕らが右派だと思っている人たちにショックを与えたかったから、あのようなことをしたんだよ。でも、今の時代から見ると、もう二度とやらないかもしれないね」
この曲では、Lindemann がマーチの武骨なビートにのせて、いかに RAMMSTEIN が誤解した左翼と対峙し、彼らの芸術を読み違えた人々によって中傷されてきたかを歌っています
「彼らは私の心を正しい場所に置きたいと思っている/しかし私が下を見ると/それは私の左胸で鳴っていた/彼らの嫉妬は間違っていた」

「最初の頃は、英語で歌おうとしたんだ」と Schneider は当時を振り返ります。「でも Till の歌詞はとても力強いけど、英語にうまく翻訳されないことに気づいたんだ。だから、ドイツ語で歌い続けることにしたんだ。すると、よく人が寄ってきて、”なんて素晴らしいバンドなんだ、ドイツ語で歌っているのが残念だ” と言われたものだよ。ドイツ以外の国では未来がないと言われたんだ。他の国で成功するチャンスはないってね」
20年経った今、RAMMSTEIN ほどこの件について大笑いしている人はいないでしょう。壁の向こう側からやってきたこの6人の不良たちは、想像できる限りのあらゆるトレンドに逆らいながら、25年間を過ごしてきたのです。
「俺たちは西側のバンドにはなれなかった」と Lorenz は言います。「俺たちは若い頃に、協力することが大切で、一人はそれほど重要ではないと学んだからだ。だから今でも一緒にいるんだ」
RAMMSTEIN のアートが彼らの生い立ちに対する反応であったとすれば、Lindemann の個人的な倫理観もまた然り。バンドの初期には、バンドへのコミットメントと、1985年に生まれた幼い娘ネレを育てる片親としての仕事とをしっかり両立させていました。自称カルマの信者である彼は、実の父親が子育てに無頓着で、時には無関心であったことを忘れてはいませんでした。
「父はぜんぜん家にいなかった。彼は朗読会のツアーに出かけていたんだ。でも、ネレとマリーには、芸術的な生活の中で時々起こる混乱にもかかわらず、”普通の” 教育を施そうと懸命に努力した。私は間違いなくいい父親だよ。
まあ、子供が小さかった頃は、RAMMSTEIN に今ほど大きな時間的プレッシャーがかかっていなかったんだ。子供たちはいい子で、自分たちのことは自分たちでやる」

2019年の無題の作品、RAMMSTEIN の真骨頂に続く “Zeit”。大胆にもドイツ語で “時間” を意味するラベルが貼られたアルバムには、様々な時の流れが集約されています。”Liebe ist für alle da” からの10年のブランクを考慮すれば、ましてや Covid の状況を加味すれば、RAMMSTEIN のレコードがこれほどすぐに届くと予想した人はほとんどいなかったはずです。これもまた、時の魔法。前作のリリースから2年あまりの間、ツアーは大幅に制限され、一時は Till Lindemann が(COVIDではない状態で)集中治療室に収容されたこともあり、”Zeit” は時代の移り変わりや空になった砂時計、生命のはかなさをたしかに連想させます。しかしそれよりも興味深いのは、この大物たちでさえ、彼らの独特の方式でさえ、停滞を避けるために時の流れに従って進化を必要とする、その事実を暗黙のうちに認めていることでしょう。
アルバムのオープニングには落ち着いた世界の倦怠感があります。かすかに響くピアノラインと複雑で熟考されたリリック。「私たちは終わりに向かって漂い 急がず ただ前進する 海岸で無限が手招きしている」
“Giftig” は、彼らがパーティーのやり方を忘れていないことを明確に証明しています。”Du Hast” の流れを汲む、6弦とレイヴなシンセサイザーを組み合わせた短編。”Zick Zack” は、重量感溢れるリフに混じってディスコビートを使い、整形手術や永遠の若さに対するセレブの執着を皮肉たっぷりに批評。”腹の脂肪はゴミ箱へ/ペニスは再び太陽を拝む”。”Zeit” の全体的なテーマである “時を超えて繰り返し聴ける” こと。”Zick Zack” はその象徴的な楽曲でしょう。
“OK” は、”Links 2 3 4″ のキャッチーさに加え、より難解な歌詞、よりグルーヴィーなギター、そしてかの GHOST が誇るであろう大規模なクワイアのアウトロを誇る、まさに燃え盛る炎と呼ぶにふさわしい名曲。”Zeit” は単なる大ヒットのリサイクル、ノスタルジックな時の旅ではありません。
シンプルに “Sex” と題されたトラックをフィーチャーした前作と比較して、”Zeit” は彼らがいかに自己反省的で内省的かを改めて発見できる作品なのでしょう。”Angst” のような曲では、おなじみの胸を張った表現でファンが望むものを提供しつつ、同時に彼らの最も暗い恐怖をむき出しにする意志も見え隠れ。”Meine Tränen” (My Tears)と “Lügen” (Lie) では、正直な感情がより率直にむき出しにサウンドに反映されていて、前者のオペラティックなメロドラマは、後者のアンビエンス、ボコーダー、ブラックゲイズと対を成しています。そうしてパーカッシブな “Dicke Titten”(大きなおっぱい)は、ファンが期待するポルノ的な挑発ではなく、本当に膨らんだ胸への暖かい抱擁に意味を見出しているようです。
LED ZEPPELIN や Alice Cooper の雑音混じりの音楽を聞くためトランジスタ・ラジオに耳を傾けた10代の子供が、今や世界的な大スター。その未来は、若き日の Till Lindemann が思い描いた通りのものだったのでしょうか?Till Lindemann は若き日の Till Lindemann に暖かい抱擁をあたえるのでしょうか?
「そんなことは考えずに、ただ自分のベストを尽くすだけさ。音楽家は誰でも自由を渇望している。私は、それを見つけることができただけで幸せだよ」

参考文献: KERRANG!: The Real Till Lindemann: Meet The Man Behind The Flamethrower

LOUDER:Rammstein: The birth of a legend

KERRANG!: Rammstein: How Mutter took the world’s most perverse band to the extreme

REVOLVER:REVIEW: RAMMSTEIN’S SMART, LEWD ‘ZEIT’ HAS BIG BOOBS, COCK ROCK AND MORE

COVER STORY + NEW DISC REVIEW 【FEAR FACTORY : AGGRESSION CONTINUUM】


COVER STORY : FEAR FACTORY “AGGRESSION CONTINUUM”

“Syncopated Guitars And Drums… A Lot Of People Were Saying, ‘Well, Meshuggah Made That Popular, Yeah, Meshuggah Didn’t Make It Popular Till Much Later. Fear Factory At That Time Was a Much Bigger Band. We Were The Only Band, Really, At The Time That Was Really Popularizing That Style With The Syncopated Guitars And Drums.”

FEAR FACTORY DEMANUFACTURES   AGGRESSION CONTINUUM

FEAR FACTORY の偉業。未来はいつも今、作られ続けています。1995年にリリースされたセカンド・アルバム “Demanufacture” のリリースから25年以上が経過し、読者の中にはもしかすると発売当時生まれていなかった人もいるかもしれません。しかし、そんなリスナーでもこのアルバムを耳にして、時代遅れだとか古臭いといった感想を待つ事はきっとあり得ません。”Demanufacture” は時代を遥か先取りした革新的な作品であり、そして現在でも当時と同じように新鮮に聞こえます。メタルとハードコアの近未来的衝突。
実際、”Demanufacture” はメタルの未来と、インタラクティブ・テクノロジーや人工知能の暴走を、鋭く、力強く予言していました。エクストリーム・ミュージックのサウンドを永遠に変えながら。
実のところ、FEAR FACTORY は広く成功する可能性を持ったバンドではありませんでした。1991年のデビュー作 “Soul Of A New Machine” は、デスメタル、グラインドコア、インダストリアル・ミュージックからヒントを得た、非常に新鮮で独創的なエクストリーム・メタルのレコードでバンドのユニークさを存分に認識させましたが、彼らの音楽的ビジョンが真に生かされたのは、1993年に発表された同様に画期的な “Fear Is The Mindkiller remix EP” でした。FRONTLINE ASSEMBLY の Rhys Fulber が解体・再構築したリミックスの輝きは、喜びに満ちた異種交配によって FEAR FACTORY を正しい方向へと誘い、やがて彼らのキャリアを決定づけるアルバムへと導いたのです。ギタリスト Dino Cazares は当時を振り返ります。
「”Fear Is The Mindkiller” は、俺たちがやりたかったこと。ただ、最初はそのための技術がなかったんだ。キーボードのサンプルもなければ、Rhys が使用するようなコンピュータもなかった。だから、ギター、ベース、ドラム、ボーカルでマシンをエミュレートしようとしたんだ。KMFDM や Ministry のような古いインダストリアル・バンドを聴くと、メタルのリフをサンプリングし、それをループさせて同じリフを何度も繰り返しているよね。僕らはそれを楽器で真似しようとしたんだ」
“Soul Of A New Machine” で礎を築き、その後、リミックスアルバム “Fear Is The Mindkiller” で理想に近づいた FEAR FACTORY。しかし、やはり “Demanufacture” は別格でした。その遺産、今日まで続いている影響、そしてメタルのスタンダードになった手法は多岐に及びます。
まず、クリーン・ボーカルと極端なデス・グラントをミックスした Burton C. Bell のスタイルに注目が集まりました。
「特に、クリーン・ボーカルと極端なデス・グラントをミックスした俺のスタイルは、メタル界のスタンダードとなった。 もしわかっていたら、自分のスタイルを商標登録していただろうね。そんなことはできないだろうけど (笑)。”Fear Is The Mindkiller” の後、俺たちは “Soul Of A New Machine” と “FITM” とのコンビネーションを求めたんだ。完全なエレクトロニックではなく、新しい展開があり、また、多くのハードコア・バンドとツアーをしていたから、ハードコアやメタルの雰囲気も残したかったんだ。そこにさらにもう少し新鮮さを加味したいと思って、ボーカルの幅を広げ始めたんだよね」
そのボーカル・スタイルにはどうやってたどり着いたのでしょう?
「そうだな、正直俺はあまりメタル系の人間ではなかったんだ。好きなメタルバンドはいくつかあったけど、どちらかというと HEAD OF DAVID や SONIC YOUTH, BIG BLACK といったバンドの方が好きだったね。他のバンドの中にもすごく好きな部分があって、例えば GODFLESH では Justin が歌うというより、うめき声のような感じで感情を露わにしている。俺は Justin の真似をしようとしたんだけど、うめき声ではなくメロディーのようなものが出てきたんだ。クールなサウンドだったからそのまま続けてみたら、そのボーカル・スタイルをより多く曲に取り入れることができたんだよね。すべての曲ではないけど、”Pisschrist”, “Self Bias Resistor”, “Zero Signal”, “Replica” みたいな曲では、とても効果的だった。ただ、それはまだはじまりに過ぎず、今でもさらに発展し続けているんだよ」

時代を先取りしていたのは、Burton のボーカルだけではありません。Raymond Herrera のドラムパターンの驚速と激しさは、バンドが本物のドラマーではなく、ドラムマシンを使っていると思われるほどでした。
「彼はスタミナと体力をつけるために、コンバット・ブーツやレッグ・ウェイトを使って演奏していたんだ。人々は、彼が本物のドラマーであることを信じていなかったし、シンガーが一人であることも信じていなかったんだよ。つまり、俺たちには多くの誤解を解いて回らなきゃならなかった。特に初期のツアーでは SICK OF IT ALL や BIOHAZARD のようなハードコア・バンドと一緒に回っていたから、受け入れてもらうのに時間がかかったね」
自身も右手に重りをつけ、左手指の関節を固定してマシンガンピックを養った Dino は、自分たちの音楽にターボチャージャーをかけてパワーアップさせる方法を見つけようとしていました。Rhys Fulber が回顧します。「”Fear Is The Mindkiller” では、それまで演奏されていなかったようなインダストリアルなクラブで演奏するようになったからね」
FEAR FACTORY とロードランナーとの契約に尽力した著名なメタルA&Rのモンテ・コナーは、このバンドの特異なアプローチにいち早く可能性を見出し、革命的だと主張した人物です。
「FEAR FACTORY は最初から先駆的だった。残忍なデスメタル・バンドが、ポップなコーラスを入れていたんだから。しかし、 “Demanufacture” を制作していたときの目標は、デスメタルから完全に新しいものへと進化させることになったんだけどね」
関係者全員の多様な嗜好。FEAR FACTORY はそもそも決して一般的なメタル・バンドになる運命にはありませんでした。デスメタル、インダストリアル、エレクトロニカ、サウンドトラックなど、バンドが愛してやまないものすべてが、スリリングで見慣れない新たなアイデンティティへと集約されていきました。90年代初頭は、商業的にはメタルにとって最も恵まれた時代ではありませんでしたが、SEPULTURA, PANTERA, MACHINE HEAD, KORN などと並んで FEAR FACTORY は新しいやり方とサウンドを考案することで、このジャンルに新鮮な命を吹き込んでいたのです。Burton が説明します。
「俺たちは、FEAR FACTORY をこんなサウンドにしたいというビジョンを持っていたけど、自分たちの技術を理解し、そのポイントに到達する方法を把握するのに時間がかかったんだよね。”Demanufacture” の時点で、すべてがまとまったんだ。歌詞、コンセプト、サウンド、アレンジ、プロダクション…すべてがね。チャンスを逃すことを恐れてはいなかった。だから自分たちの好きなことだけをやっていたよ。コーラスをビッグにしたり、テクノの要素を取り入れたり。自分たちが好きなら、やってみようという感じだった。失うものは何もなかったんだから」

1994年10月から12月にかけてレコーディングされた “Demanufacture” に問題がなかったわけではありません。バンドは、シカゴの Trax スタジオでレコーディングを開始しましたが、すぐに自分たちが期待していたものとは違うことに気づきました。
「次から次へと問題が出てきて、まさに最悪の状態だったな。ドラムを聴き直すと、マイクが機能していなかったせいで多くの音が欠落していた。俺たちは、”この場所はクソだ ” と思い、FAITH NO MORE が “King For A Day” をレコーディングしていたウッドストックに飛んだんだ。空きスペースはあったんだけど、1ヶ月分もはなかったから、結局、シカゴのデイズ・インで1ヶ月間、床に寝ることになったよ。その後、ベアーズビルのスタジオが使えるようになるまで、マネージャーの家に住んでいたね。ここの未完成の地下室を使って、文字通り地面の上でリハーサルをしていたんだ。6月から10月の間、俺たちは宙ぶらりんだった」
ベアーズヴィルは彼らのニーズに合ったスタジオでしたが、バンドには時間がなく、ロンドンのウィットフィールド・ストリート・スタジオでボーカルを完成させました。アルバムの音がちょうどよくなるまで、何度もミックスとリミックスを繰り返しました。また、アルバムにクレジットされてはいますが、ベーシストの Christian Olde Wolbers はバンドに入ったばかりで、Burton によると「十分にタイトな演奏ができなかった」ため、彼のパートはギタリストの Dino Cazares が担当したといいます。その Dino がレコーディングを振り返ります。
「俺たちは、山の中の都会人だった。スタジオでは、FAITH NO MORE と BON JOVI に挟まれていたんだ。FAITH NO MORE とはよく一緒に遊んだと言っておこう。ドラムを始めてからは順調だったんだけど、ギターを始めたところで壁にぶつかってしまった。最初のプロデューサー Colin は俺のギター・トーンが気に入らなかったんだ。2週間も喧嘩して、1音も録れなかったんだよ!」
プロデューサーとの対立の中で、Dino と Burton は、時間がどんどん過ぎていき、予算がどんどんなくなっていくのを感じていました。Colin は、Dino が機材を変えるべきだと断固として主張した。Dino は Colin に「失せろ」と言いました。
「これが俺の音なんだ!ってね。ある日、あまりにもイライラしていたから、スタジオから坂を下ったところにあるフルーツ・スタンドまで歩いて行ったんだ。そこで働いていた男の人に見覚えがあって、それが DC のハードコア・レジェンド BAD BRAINS のギタリスト、Dr. Know だったんだよね。そこで彼と話をして、今の状況を伝えると、彼は『君が使えるものを持っているよ』と言ってくれた。それで、俺のアンプを彼のキャビネットに接続してみたところ、突然、ドーンと音が出てきたんだ。みんな額の汗を拭いていたよ。ハハハ!」
膠着状態が解けたことで、”Demanufacture” の制作が本格的に始まりました。キーボード、サンプル、サウンドエフェクトに重点を置きながらも、リフとキックドラムの同期した機械的ブレンドによって前進するこのアルバムは、11曲で構成され、メタルの新しいマニフェストとなることが約束されていました。しかし、アルバムに対する Dino のビジョンは、その集中力と激しさゆえに、Colin Richadson がミックスを担当するにはもはや適任ではないという結論へと急速に達していました。Rhys Fulber が証言します。
「Colin を悪く言うつもりはないよ。彼は素晴らしい人だけど、俺たちは違う方向に進んでいると感じていた。もし彼がミックスしていたら、典型的なメタルのレコードになっていただろうな。俺たちには既成概念にとらわれないことが必要だった。最初のミックスは最悪でね。キーボードが前面に出ていなくて、俺たちはあの音を大きくしたかったからレコードのコントロールを取り戻したんだ」

誤った情報の宝庫であるウィキペディアによると、”Demanufacture” は、映画『ターミネーター』の第1作目からインスピレーションを得たコンセプト・アルバムであるとされていますが実際はどうなのでしょう? Dino が振り返ります。
「俺たちは最初からSF映画のファンだった。『マッドマックス』は、1979年に撮影されたものでずいぶん昔の話だけど、俺らは子供の頃にそれを見ていたんだ。その後、突然『ターミネーター』が登場して、”Soul of a New Machine” の時に、『ターミネーター2』に出てきた液化したT-1000という新型ターミネーターの記事を読んで、新たな機械の魂ってアルバムのタイトルとしては最高だなと思ったんだ。だから、俺たちは明らかにテクノロジーを受け入れ、それを FEAR FACTORY の大きなコンセプトにしたんだ」
Burton は、SF がインスピレーションのひとつであることに同意するものの、それは多くの源のひとつに過ぎないと語ります。
「俺は『ロボコップ』、『ブレードランナー』、『フォーリング・ダウン』、『アポカリプス・ナウ』のファンだった。あと、”The Closet “という映画があって、そこでは冷戦時代の東側の尋問が描かれていて、それがいくつかの曲のインスピレーションになっているんだ。当時のビデオゲームからもいくつかヒントを得たね。でも、一番のインスピレーションは、92年のLAでの暴動だったと思う。俺たちはアレを経験しているから。殴られたり、裁判を傍聴したりね」
Dino が付け加えます。
「1990年から1995年にかけて、火事、洪水、暴動が起こった。1994年には大きな地震があり、ロサンゼルスが破壊されるのを目の当たりにしたよ。略奪者、銃撃戦、国家警備隊の夜のパトロールなどを目の当たりにね。Burton はそのすべてを “Demanufacture” に注ぎ込むことができたんだよ。このアルバムの最初の行は、”Desensitised by the values of life… ” だからね」
皮肉なことに、暴動が始まった日、バンドはLA南部で “Soul Of A New Machine” の写真撮影を行っていました。その場所は、暴動がはじまったフローレンスとノルマンディーから文字通り3ブロック離れた場所でした。Burton が回顧します。
「人々が集まって抗議活動を始めたとき、ちょうど車でそこを通っていたんだ。これはひどいことになるぞ、早くここから出ようと思っていたね。そして、実際に醜くなった。ピリピリしていたよ。誰もが敵対し、標的になっていた。誰も警察を信用していなかった。シュールだったね。ビルの屋上で自動小銃を持って商品を守っている人もいたんだから。俺たちは “Demanufacture” の時代に生きていて、人間と戦い、生き延びるために必死だった。精神的にも肉体的にも影響を受けたよ。つまり、住んでいた場所を失い、正式にホームレスになって、94年の “Demanufacture” のレコーディングが終わるまで、ソファで暮らしていたんだから」

人間対機械という考えは、FEAR FACTORY にとって永遠のテーマとなりました。自動精算機、ドローン、自動運転車が普及している今日、それは彼らが想像していたよりも予言的であったかもしれません。コンセプトアルバムのアイデアは “Demanufacture” が完成した後に生まれたと Burton は説明します。
「アルバムを録音し、アートワークも完成していたけど、プレス用に各曲の解説をするように頼まれたんだ。そしてそれを書き始めたところ、各曲にストーリーを持たせることが自然に思えてね。つまり、この混乱と人々の暴動の中に主人公がいるということだよ」
歌詞を振り返ってみると、未来的というよりは非常に個人的な内容のものもあります。
「そうだね、すべて個人的なものだよ。”Therapy For Pain” は、元ガールフレンドの夢を描いたもので、愛と痛みをテーマにしているよ。”Zero Signal” は、ロンドンでアシッドトリップから目覚めたときに書いたんだ。Marquee クラブのレイブで大量のアシッドを摂取して、ある女の子と付き合い始めたんだ。彼女の部屋で一晩中トリップしていたんだけど、目が覚めるとカーテンの隙間から日の光が入ってきて、その光が青い目をしたイエスの巨大な絵に当たっていたんだよね。アレはとてもパーソナルな出来事だったな。あとは、あのころ俺は法律番組をよく見ていて、台詞をカセットに録音していたんだけど、その多くがアルバムに使われている」
一方、Dino は別の場所からインスピレーションを得ていました。
「Dino と俺は当時、一緒に暮らしていたんだ。彼はあのころ Dimebag のようになりたいと思って、”Cowboys From Hell” を全部暗記していたくらいでね。それに、面白い事実があるんだ… “New Breed” のリフは、STONE TEMPLE PILOTS のリフを逆に演奏したものなんだよ。確か “Vaseline” だったかな」
1995年6月13日に発売された “Demanufacture” は、オーストラリアではゴールド、イギリスではシルバーに認定され、アルバムチャートで27位を記録しました。さらに、このアルバムは無数のメタルバンドに影響を与え、インダストリアル・メタルやメタルコア、さらにはかなり先の未来、 djent の文字通り青写真となりました。Burton は胸を張ります。
「”Demanufacture” は、俺のキャリア全体を変えたし、多くの扉を開いてくれたんだ。あのアルバムは時の試練に耐えてきたと思うよ。サウンド面やプロダクション面だけでなく、歌詞の面でも真実味がある。俺たちは、暴動やいろいろなことで、文字通り常に緊張感の中にあった。つまり、現在のような状態だよ。結局歴史は繰り返すんだ」
Dino も同様にあのレコードを誇りに思っています。
「本物の演奏だと気づかない人もいた。エレクトロニック・ドラム、つまりプログラムされたドラムだと思った人もいたし、俺のギターがサンプリングされたものだと思った人もいた。非常にタイトなレコードだったから、そしてある意味では機械的な音だったから、リアルではないと思われたんだ。俺は、今でも人々が賞賛するサウンドを作ることができたことをとても嬉しく思っている。今でもあのレコードに影響を受けている人がいるからね。あれはバンドのキャリアの中でも画期的なもので、インダストリアル・メタルというジャンルを定義するような作品を作ったんだ。確かに、 MINISTRY や GODFLESH みたいなバンドはいたけど、FEAR FACTORY はそれを別のレベルに引き上げたんだよね。他の人がやっていないような多くの要素を組み合わせたんだ。
レコードのプロダクションも大きな要因のひとつだね。このレコードのミキシングは、間違いなく新しいレベルに到達している。Rhys と Greg がミックスを担当したのは、この種の音楽の標準となるような、素晴らしいものだったから。ボーカルだけでも、後に続く世代のミュージシャンやボーカリストにインスピレーションを与えたよね。シンコペーションの効いたギターやドラム…多くの人が MESHUGGAHが流行らせたと言っているけど、MESHUGGAH が流行らせたのはもっと後だよ。当時の FEAR FACTORY はもっとビッグなバンドだったから。シンコペーション・ギターやドラムを使ったあのスタイルを広めたのは、当時の俺らだけだったんだ。だから、時の試練に耐えられるような名盤を作れたことは、とても幸運だったと思うよ」
Dino は今でも “Demanfucature” よく聴き返すと語っています。
「サウンドとかではなく、構造を聴くために時々戻ってくるんだ。多くの場合、その構造を新しい曲に応用しているよ。例えば、どうやって “Zero Signal” を書いたんだっけ?どうやって始まるのか?バースはどこへ行くのか?中盤はどうなっているのか?とかね。新しい曲に行き詰ったら、”Demanufacture” に戻って、『よし、これが俺たちのやり方だから、戻ってこの曲に適用してみよう』という感じになる。曲がまったく違っていても、リフが違っていても、今でも曲作りの助けになっているんだよ」

あれから26年。Dino が語る通り、FEAR FACTORY は FEAR FACTORY の哲学を微塵も失わない強力な “Aggression Continuum” で戻ってきました。そう、彼らのアグレッションは今でも続いています。
長い間の悲劇的な活動休止の後、棚上げされていた原題 “Monolith” がついに私たちの目の前に現れました。しかし、ここに一つ大きな問題が。30年のキャリアの中で11枚目のフルアルバムである “Aggression Continuum” は、ギタリスト Dino Cazares とボーカリスト Burton C. Bell のデュオにとって最後の作品になります。このアルバムでこそ Burton はその唯一無二の個性を響かせていますが、すでにバンドを脱退。しかし多くの人にとって、Dino と Burton こそが FEAR FACTORY なのではないでしょうか?
残念なことに、ここ数年、Burton や Dino をはじめとするメンバーの人生には様々な浮き沈みがあり、破産や商標権の問題など、バンドの主眼である音楽の行く手を阻む困難が多くありました。そして、二人が一緒にステージに立ち、熱狂的なオーディエンスの前で “Replica” や “Edgecrusher” を口ずさむ姿を見ることはもうかないません。つまり、私たちは “Aggression Continuum” を最大限に活用し、この章をふさわしい形で終わらせることを期待しなければならないのです。
過去と現在のバンドメンバーからの一貫した不誠実な表現と根拠のない告発。Burton が発表した脱退の理由はいたってシンプルでした。
「脱退をしばらく考えていたんだ。訴訟で消耗したんだよね。エゴの塊。貪欲さ。バンドのメンバーだけでなく、弁護士も含めてね。俺はただ、バンドに対する愛情を失っただけ。FEAR FACTORY では、常に何が起きているんだ!と思うことばかりだった。30年というのは、とても良い期間だよ。俺が FEAR FACTORY で制作したアルバムは、これからもずっと世に出続ける。俺は常にその一部であり続けるんだ。だけどただ、前に進むべき時だと感じたんだよ。もちろん、自分の遺産を誇りに思っている。俺たちは偉大なことを成し遂げたからね。信じられないような音楽を作り、音楽業界や世界中のファンに忘れがたい足跡を残してきた。最高の時には山の頂上に登り、最低の時には深い溝を掘ってきた。ただ、別のバンドでもっと素晴らしいことをするために、前に進まなければならない時が来るんだ…」

Dino にももちろん言い分はあります。
「辞めるとすら彼は言わなかった。SNS で知ったくらいでね。彼はいつものように、ちょっと姿を消してしたんだよ。俺が知っている Burton は、困難な状況になると逃げるのが好きな男なんだよね。彼は2002年に辞め、2007年には他のメンバーを辞めさせ、そして今また辞めている。彼はすべてのレコードで歌声を残しているにもかかわらず、辞めてしまう人でもあるんだよ。
俺は問題に正面から取り組むのが好きだ。もし問題があるなら、部屋に入って議論し、解決しようとする。人によっては、自分が追い込まれているように感じ、それに耐えられないこともあるだろうね。彼はそういうタイプなんだ。
去ったのは3年前だが、正直なところ、本当に去ったのは何年も前のことだと思う。おそらく20年は経っているだろう。彼は FEAR FACTORY のために歌詞を書いていたのは、心の底からではないと言っていた。歌詞を崇拝しているファンへの冒涜だよ。お金のために戻ってきたとも 言っていたしね。すでに知っていたよ。対処しなければならなかった」
たしかに Burton は現在、別バンド ASCESION OF THE WATCHER にすべてを捧げています。Dino が FEAR FACTORY に情熱を注ぐように。
「レコードを作ることに関しては、俺は非常に意欲的な人間だ。Burton はいつもプッシュしなければならなかった。さあ、やろうぜ !ってね。 あるいは、彼に連絡を取ろうとしても、彼がいないこともあった。何ヶ月も何ヶ月も姿を消していて、どこにいるのかわからない。彼が戻ってくるのを待つしかないんだよ。
“The Industrialist” のときは、俺がすべての曲を書いて準備ができていたんだけど、Burton が8カ月間も姿を消して、誰にも居場所を教えなかったんだ。その後、彼はカナダで “City Of Fire” というプロジェクトに参加していることがわかった。もちろん、今では自分のプロジェクトで自分のことをする必要があることも理解している。わかったよ。だけど、俺たちに教えてくれよ!
そういう面もあったよね。つまり Burton は長い間、出口を探しているように見えたんだ。彼は自分の他のプロジェクトが軌道に乗ることを望んでいて、そうすれば「おい、CITY OF FIRE は次の SOUNDGARDEN になるぞ、じゃあな!」と言うんじゃないかってね」

バンドを巡る訴訟や個人的な問題が、Burton の脱退に影響を及ぼしたのは明らかです。アルバムの赤々と燃える怒りの炎の代償とも言えるでしょうか。
「理解してもらいたいんだが、俺たちはとても多くの法的な問題や破産、離婚を経験した。俺は個人的に100万ドルの損失を被ったからな。ストレスは大きかったね。何度か病院に行かなければならなかった。心臓発作かと思ったけど、すべてはストレスによるものだった。でも、勘違いしないでほしい。俺はそのことで、戦うべきことを戦い、必要な犠牲を払うことを躊躇したわけではないんだよ。音楽は俺の情熱だから。常に愛しているんだ」
現在は、FEAR FACTORY の商標は、Dino が単独で所有しています。
「必要な措置だった。バンドを存続させたかったら、戦わなければならないという緊急性があった。Burton と戦うという意味ではなく、裁判所と戦うという意味で、Raymond や Christian と戦うという意味でね。
連邦破産法第7章を申請するときには、すべての資産をリストアップしなければならない。コンピュータ、車、家、ビジネス、そして商標などもリストアップしなければならない。そこに何も記載していないと、奪われてしまうんだ。それが Burton に起こったことだよ。Raymond と Christian の弁護士が、彼が FEAR FACTORY の商標を資産として登録していないことを発見したため、商標を取り上げられたんだ。それで裁判所がオークションに出した。みんな俺が Burton から商標を奪った、あるいは訴えたと思っている。だけど、裁判所が商標をオークションにかけたんだ。つまり、誰でも入札できる eBayのようなもの。俺は商標を手放すつもりがなかった。最高額で落札しようとしたんだけど、その入札者には Raymond や Christian もいたんだよね。とても激しい競り合いで、汗びっしょりだったよ」
クラウドファンディングで制作費を募って完成させたアルバムです。
「確かに高額なアルバムだった。レコード会社からもらった前金を使い果たしてしまったから、結局、GoFundMe キャンペーンを行うことになった。キャンペーンはとても成功したんだけど、Burton は賛成しなかったんだ。なぜかはわからないけどね。レコードが出れば彼の利益になるだけだからね。でも、本当に助けてくれたファンの皆に感謝しているんだよ。2万5,000ドルも集まったからね。これは、アンディ・スニープにミックスを依頼したり、生ドラムを叩いてもらったり、エンジニアを雇うための費用となった。金額は言えないけど、かなりの額自腹も切ったよ。だから、俺は今ほとんど無一文なんだ。でも、俺は悪いレコードを抱えて生きることはできないから。もし、ここまで戦ってきて、レコードが最悪だったら意味がないんだ」
一連の騒動がアルバムになんらかの影を落としたのでしょうか?
「いや、音楽に影を落としているとは思わないね、全く。むしろ摩擦が素晴らしいものを生み出すことだってあるだろ?この新譜でもそうだと思うよ。Burton が奏でる美しいメロディックなボーカルには、怒りや不安の感情が同時に込められている。彼が書いた歌詞と彼が歌った歌詞を聴けば、素晴らしいの感想以外はでないだろう」

間違いありません。ここには Burton C Bellの声があります。この声は、SLIPKNOT や KILLSWITCH ENGAGE が台頭してきたときに流行した、ダイナミックな唸りと歌声の元祖。そして、SF的なシンセサイザーやドラムトリガーと、ギターやベースの本格的なピッキングを組み合わせた、相反融合するインダストリアルでオーガニックなサウンドはいささかも衰えることはありません。
つまり、Dino と Burton の FEAR FACTORY は最も相応しい形でその幕を閉じます。インダストリアル・サウンドとマシンライクなリフアタック、多弦の重み、免許皆伝二刀流のボーカル、研ぎ澄まされたリズム隊に加え、一際メロディックでキャッチーなコーラス。さらに、アルバムには映画のようなオーケストレーションが施されており、深みがあって、近未来的なディストピアやドラマのような感覚がしっかりと刻まれています。何より、闘争の恩恵か、彼らは怒りやエッジをほとんど失っていません。”Demanufacture” で聴かれた怒りに匹敵する高温がまだここには火照っています。ただし、何十年もかけて曲作りが洗練されてきたせいか、どことなく柔らかさや滑らかさが出てきたような気もしますね。
モンスター・コーラスといえば、”Purify” が “Agggression Continuum” の “Replica” であるという考えはあながち間違ってはいないはずです。このレコードに収録されている曲の中で最も即効性のある曲ですが、スタイルとエレガンスを持って “浄化” が行われているため、あからさまなキャッチーさやポップメタル的なニュアンスとは無縁。最近、Burton が LINKIN PARK の “Hybrid Theory” は子供向けの “Demanufacture” だと語っていたのを思い出しました。Dino は一笑に付していましたが。
ファースト・シングルの “Disruptor” は、”Genexus”の “Soul Hacker” と多くの共通点があり、 「自分の道を貫け」という希望に満ちた歌詞を持つ、抵抗のための力強いアンセムです。”Fuel Injected Suicide Machine” では、バンドが愛する複雑すぎる曲名と、冷酷なまでの攻撃性が見事に融合しています。「運命を恐れず」「決して抵抗をやめない」という歌詞は、”Demanufacture” のメジャーな曲と同レベルの、真のインダストリアル・バンガー。
FEAR FACTORY には、アルバムを壮大でゆっくりとした曲で閉じるという強い伝統がありますが今回はそうではなく、”End of Line” は、Burton の広大なボーカルレンジと豊富なリフを使ったメタルトラックで、アルバムを大々的に締めくくっています。”Monolith”のソロのように、一歩踏み出した挑戦もあり、”Aggression Continuum” 以前のリリースとは異なるエッジがたしかに生まれてきているのです。そうしてシンセと話し言葉だけが残り、深い声で「恐怖がなくなったとき、私だけが残る」と述べてアルバムは幕を閉じます。危険は去っていない、抵抗は続いていく。結局、FEAR FACTORY は “Demanufacture” のころからずっと、メタルのレジスタンスであり続けているのでしょう。
女性ボーカルを入れるという噂もありますが、Burton との復縁はもう起こらないのでしょうか?
「俺は前に進まなければならない。だから起こるならすぐに実現しなければならないと思う。ファンの皆が待たされるのは不公平だと思うからね。もしそうなるのであれば、なぜ今ではないんだい?なぜファンは、彼がここが自分の居場所だと気づくのを待たなければならないのだろう?
わからないけど、彼は新しい人生の選択をして、前に進んでいるのかもしれない。彼がここにいたくないと思っていた時期が何度もあったという事実を無視することはできないよ。彼が出口を探していた時期もあったしね。だけど、同時に、俺たちが作り上げたものを否定することもできないよね。だから…将来的に Burton と復縁するか?可能性はあるよ。俺はそれを受け入れている」

参考文献: EON MUSIC: FEAR FACTORY Interview

KERRANG!:“I’m Proud Of My Legacy… But You Have To Move Forward”: Burton C. Bell On Leaving Fear Factory And What’s To Come

LOUDER:Dino Cazares: “I think Burton C Bell left Fear Factory many, many years ago”

NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【KIBERSPASSK : SEE BEAR】


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH KIBERSPASSK OF BABA YAGA !!

“See Bear” Is a Song About My Homeland, My Native Land. A Song About The Pristine Beauty And Greatness Of Siberia. I Am Very Inspired By The Pure Siberian Nature, Endless Expanses And a Huge Blue Sky.”

DISC REVIEW “SEE BEAR”

「”See Bear” (シベリアとかけている) は、私の祖国、生まれ育った土地についての歌よ。シベリアの原始的な美しさと偉大さを歌った曲。私は、純粋なシベリアの自然、果てしなく広がる大地、大きな青い空にとても刺激を受けているの。愛するシベリアをありのまま見せたかったの」
生い茂る針葉樹林、見渡す限りの永久凍土、そして果てのない空。シベリアのタイガに訪れる長い夜を、KIBERSPASSK はハードなダーク・エレクトロで語り、音とし、世界へと発信します。凍てつく寒さと闇の帳には、ひりつくようなインダストリアルとロシアの厳粛なフォークロアを組み合わせたユニークな音化粧がよく似合います。
「私は NYTT LAND という、世界的にもかなり有名なバンドをもう一つやっていて、そこではシャーマニックなダークフォークを作り、古代楽器を演奏し、シベリアのタイガにおけるシャーマンの歌を歌っているのよ。だから、KIBERSPASSK は、私の別人格なの」
冬にはマイナス30℃を超える極寒の地。カザフスタンから100キロ、アルタイ山脈の麓にひろがる西シベリアの草原がバンドの故郷です。そんな場所で Baba Yaga こと Natalya Pahalenko と夫の Anthony はカンテレやタルハルパという古の楽器を操り、北欧神話やシベリア先住民のシャーマンから薫陶を受けた “シャーマニック・ダークフォーク” を奏で世界的な成功を納めます。KIBERSPASSK とはそんな彼らのシベリアという厳しくも美しい環境に特化した別人格。今にも “死にかけた” 村の名前を抱きながら。
「私はずっと自分のやり方でボーカル・テクニックに取り組んできたわ。主な方向性は、伝統的なロシアのフォーク・ボーカル、北欧のヨイク (サーミ人の伝統歌唱) 、トゥバ共和国の喉歌よ」
KIBERSPASSK の特別な音楽の核となるのは、間違いなく Baba Yaga の歌唱です。Baba Yagaはその名の通り異能の力を持つ魔女でシャーマンかもしれません。ヨイクで天使のメロディーに荒々しい異教の呪いの声をかけたり、ホーミーで草原や森林に邪教の声を響き渡らせるのですから。そしてその歌声は、MINISTRY を想起させる攻撃的で無機質なインダストリアルの背景に独特の夜と自然、呪術的アトモスフィアをもたらすのです。
「シベリアの先住民族のフォークロアも同様だけど、ロシアの伝統音楽は私たちの祖先の精神的・文化的遺産のルーツを保存する非常に深い階層なの。本物の感情と個性を持った、とても美しく壮大な音楽よ。とてもインスパイアされるわ。私はもともと歴史家で、自分の土地の歴史や神話を研究し、古代の人物を自分の歌の中で蘇らせることが好きなのだから」
インスピレーションの源は、シベリアの環境や景色はもちろん、スラブ神話の暗黒面にまで及びます。キキーモラ (働き者の願いを叶え怠け者を喰らう幻獣)、ドモヴォーイ (家族を守るため悪い精霊や侵入者の殺害も厭わない家の妖精)、バーバ・ヤーガ (森に住む妖婆。骨と皮だけにまで痩せこけて、脚に至ってはむき出しの骨だけの老婆の姿をしている。人間を襲う魔女のごとき存在)、リホ (小さくて毛深い生き物) など、ロシアの子供たちが生まれたときから知っているキャラクターたち。
古い集落が消えつつあるこの土地では、シベリアの精神と真の神秘性が保たれていて、今でも神話と現実の境が曖昧です。この地で生まれ、生活し、音楽を創造する KIBERSPASSK。だからこそ、その音楽に太古の息吹と孤高、霊妙、荘厳、超自然、そして奇々怪界を持ち込むことが可能だったのでしょう。革新がもはや珍しくなってしまったジャンルに、新鮮で厳しい寒風を吹き込みながら。
今回弊誌では、Baba Yaga にインタビューを行うことができました。MV に登場する印象的なダンサーは Pahalenko 夫妻のの娘さんとの情報も。謎が深まりますね。「Babymetal は実に興味深いバンドよ!彼女たちのショーとエナジーが大好きなの。そういった要素のいくつかは、おそらく KIBERSPASSK に影響を与えているわ」 どうぞ!!

KIBERSPASSK “SEE BEAR” : 9.9/10

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NEW DISC REVIEW + INTERVIEW 【STATIC-X : PROJECT REGENERATION VOL.1】


EXCLUSIVE: INTERVIEW WITH Xer0 OF STATIC-X !!

“I Don’t Want My Face To Be The Face Of Static-X. That Seems Very Wrong. I Don’t Want My Name To Be At The Center. Xer0 Is a Figure, a Character, An Entity. I Believe That This Serves Static-X The Best. My Goal Has Always Been To Do What Is Best For Static-X.”

DISC REVIEW “PROJECT REGENERATION VOL.1”

「このアルバムが実際に出るまで、誰も STATIC-X を2020年に蘇らせることが可能だなんて思ってもいなかったよね。だけど実際、その不可能が実現したんだよ。」
悲劇の灰から立ち昇る再生の紫煙。予期せぬ喪失に吹き込まれる新たな生命。インダストリアルメタルに革命をもたらした20年の後、STATIC-X は Wayne Static の悲劇的な死とともに、永遠の沈黙に包まれる運命だと誰もが思っていました。
しかし、傑作 “Wisconsin Death Trip” を創成したオリジナルメンバーの団結、Wayne Static の遺した遺産、そして Xer0 という Wayne の魂を宿す亡霊によって、STATIC-X は Nu-metal/インダストリアルメタルの象徴に恥じない新たな一歩を踏み出したのです。
「僕の顔が STATIC-X の顔になるのは嫌だったからね。それは途方もなく間違ったことに思えたよ。自分の名前を中心にしたくないんだ。Xer0 は姿であり、キャラクターであり、存在である。 それが一番 STATIC-X のためになると思っているんだよ。僕の目標は常に STATIC-X にベストなことをすることなんだ。」
この世から姿を消したにもかかわらず、STATIC-X は今でも Wayne Static のプロジェクトであることは明らかです。それほどまでに、彼のビッグロックボイスとインダストリアルエナジー、そして重力に逆らったヘアスタイルのカリスマ性は際立っていました。
実際、SLIPKNOT, SYSTEM OF A DOWN, KORN, COAL CHAMBER といったメタルの新たな波が台頭し花開いた90年代後半、インダストリアルを基調にヘヴィーなディスコトリップを展開する STATIC-X の “Evil Disco” は完膚なきまでにあの時流へ符号していました。
そして、個性際立つ Nu-metal サーカスの中でも、フレディー・クルーガーの出で立ちで逆重力ヘアを纏い、映画と漫画のキャラクターを行き来しながら、共産主義から薬物乱用まで吐き綴る Wayne の存在感は遂に “Wisconsin Death Trip” のセールスをミリオンにまで導いたのです。
ゆえに、プロデューサー、パフォーマー、そして伝説の声を補う存在としてバンドに加わった Xer0 は文字通り、自らの存在感をゼロとして Wayne のマスクを被り STATIC-X の一部分に成りきりました。
「1999年の、STATIC-X お馴染みのビジュアル的な存在感を表現したかったんだよ。だからこそ毎晩スパイクヘアにしたんだ。ファンには、1999年に戻ったかのような、邪悪で斬新なタイムワープをしているような気分になってもらいたかったんだよ。そのためには、僕の “顔がない” ことがどうしても必要だったんだ。」
傑作の20周年を祝う旅路を終えた後、STATIC-X は “Project Regeneration Vol.1” と名付けられたプロジェクトに着手し、万難を排して新たなアルバムを世界へと放ちました。それはまさしく “再生” の道程。
Wayne の遺したデモテープを発掘し、Xer0 の声と手術でボーカルラインを繋ぎ、Tony, Ken, Koichi の偉大なトライアングラーは新たにレコーディングを行い楽曲に命を吹き込みます。完成したレコードは、当然ながらパッチワークの域を超えたノスタルジーとエナジーのダイナミックな泉でした。
チャンキーでメソジカルなビート、不気味なダウンチューンに近年再評価を受けつつあるアグロテック。MINISTRY の Al Jourgensen まで巻き込んで、これほどダンスとヘッドバンキングを両立させる音世界は彼らにしか作り得ない魔窟でしょう。Nu-Metal のダークサイドを投影した邪悪で斬新なディスコの復活です。
「多くの人が知っていると思っていると思うけど、実際には誰も何も「知っている」人はいないんだよ。憶測はたくさんあるけど、僕はそのどれにも興味は無いよ。もし僕が自分の正体を明かすことに決めたら、自分のやり方でそうするだろうね。自分がその権利を得たと信じているから。」
今回弊誌では、Xer0 にインタビューを行うことができました。一部では DOPE の鬼才 Edsel Dope ではないかとも囁かれていますが、どうなんでしょう。「Wayne は僕の友人だった。そして何より、アーティストとして、僕が信じられないほどのリスペクトを捧げている人物さ。」 どうぞ!!

STATIC-X “PROJECT REGENERATION VOL.1”: 9.9/10

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NEW DISC REVIEW + COVER STORY 【SLIPKNOT : WE ARE NOT YOUR KIND】


COVER STORY: SLIPKNOT “WE ARE NOT YOUR KIND”

“We Are Not Your Kind” Is The Most Artsy Mainstream Metal Record So Far.

DISC REVIEW “WE ARE NOT YOUR KIND”

2019年は SLIPKNOT にとってビッグイヤーに定められた年でした。セルフタイトルのデビューアルバム “Slipknot” のリリースから20年、メタル史に残る金字塔 “Vol. 3: The Subliminal Verses” のリリースから15年。しかし、襲い来るトラウマや悲劇を乗り越えたアイオワの怪奇集団にとっては、その不死身の記念碑ですら通過儀礼に過ぎないことを最新作 “We Are Not Your Kind” が如実に証明しています。
ベーシスト Paul Grey の急逝、中心メンバー Joey Jordison の離脱、Corey Taylor の離婚、Clown 愛娘の逝去、Chris Fehn の解雇劇。並みのバンドならば歩みを止めざるを得ないような状況におかれても、SLIPKNOT は諦めることなく前進を続けています。アニバーサリーの追憶に浸る代わりに、バンドは長くソリッドなライティングプロセスを過ごし新たなマイルストーンを完成へと導きました。


「歩み続けるうち、俺らはまた自由を手にしたんだ。やりたいことは何でもできる。この作品は “Vol. 3: The Subliminal Verses” と同じヴァイブ、エナジーだったね。俺らが満足している限り、どこへでも行けるのさ。」
SLIPKNOT がこれほど大きな支持を得ているのは、その過激な外観、実験性、エクストリームな音楽性の内面に陰鬱美麗なメロディーと芳醇なフックを備えていることが理由でしょう。そして、Corey Taylor は “We Are Not Your Kind” が、かつて自らが生み出したそのダイナミズムの怪物と同様のイメージで制作されたことを認めています。
“Iowa” でインテンスとアグレッションの圧倒的な狂演を見せつけた後、バンドが辿り着いた自由な創造性と対比の美学こそ “Vol.3” の哲学でした。故に、切迫した暗がりでそのスピリットを引き継いだ “We Are Not Your Kind” には、あの重音の実験室に加えて、旋律と戦慄のコントラストが遥かな進化を遂げながら確かに宿っているのです。言い換えれば、Billboard 200 で No.1を獲得した驚異の最新作は最もアーティスティックな “大衆のためのメタル” と言えるのかも知れませんね。

もちろん、メタル、ハードコア、ヒップホップのトライアングルは SLIPKNOT のコアとして存在し続けてきましたが、”Vol.3″ のトリッピーなチェンバーポップ “Circle” が示すように、3つのフラスコのみで化学反応を起こすほど彼らの実験室は限定的ではありません。
「このアルバムで、また俺らが変わったことをやれていると感じた最初の楽曲が “Spiders” だった。コアの部分をまず録音して、そこからシチューを煮込むみたいに適切な要素を加えていったのさ。ギターソロは Adrian Belew に大きなヒントを得ているよ。David Bowie が “Fasion” でやったようなことさ。」
Corey の言葉通り、”Spiders” は David Bowie が残したニューウェーブの煌めき、カメレオンの音魂を彼らの流儀でダークに抱きしめた SLIPKNOT の新たな惑星でしょう。NINE INCH NAILS の音景も封入されているでしょうか。David をインスピレーションとした火星にも似たその新境地は1曲にとどまりません。”Space Oddity” のイメージをドゥーミーに、SWANS ライクに宿す “A Liar’s Funeral” は Corey のフェイバリットです。
「David Bowie がブラックメタルをやったような楽曲だね。大量のアトモスフィアと鋭さ、そして衝撃が混ざり合っている。」


実験という意味では、TANGERINE DREAM を想起させるコズミックなイントロダクション “Insert Coin” から連なる “Unsainted” の壮大なケミストリーを見逃すわけにはいきません。
「アルバムで最後に完成した楽曲なんだ。そして、アルバムの以降の方向性を告げる最高のランドマークとなったね。」
THE ROLLING STONES の “You Can’t Always Get What You Want”、もしくは PINK FLOYD の “The Wall” にも似たコーラスマジックを携えた楽曲は、メタル、インダストリアル、サウンドトラック、クラッシックロックのキャッチーかつ完璧なキメラです。
一方で、HEALTH や GOJIRA の波動を滲ませる “Birth of the Cruel” の狡猾さもアーティスティックな “大衆のためのメタル” に真実味を加えていきます。さらに “My Pain” のエレクトロなパルスを Stanley Kubrick の映画と評する Corey。事実、アルバムは Clown の子供とも言える “Death Because of Death”, “What’s Next” といったセグエによって映画のようなドラマ性を帯びています。それは、緩と急、静と動を織り込んだエモーションのローラーコースター。実は当初 Shawn “Clown” Crahan が目指していたのは、”The Wall” のようなコンセプチュアルで二枚組の壮大な音楽劇でした。

Jim Root が 「俺らと進化してこのアルバムを気にいっても良いし、そうじゃなくても良い。ただ俺らはいつもいきたい場所へ行くだけさ。」と嘯けば、Mick Thomson は 「アルバムが好かれようが嫌われようがどうでも良い。どの道俺らは全員にアピールするような音楽じゃないから。全員に気に入られるような音楽には興味がないよ。俺らはただ自分に正直でいたいんだ。」 と主張します。
つまり、SLIPKNOT はきっと永遠に “We Are Not Your Kind” 誰の言いなりにもならず自らの百鬼夜行を続けるはずです。ただし、心から望んで、正直に表現した音楽が、これほど多くの支持を得られる危険でエクストリームな “メインストリーム” メタルバンドも、きっと永遠に SLIPKNOT だけなのかも知れません。

SLIPKNOT “WE ARE NOT YOUR KIND” : 9.9/10

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