COVER STORY + NEW DISC REVIEW 【RAMMSTEIN : ZEIT】


COVER STORY : RAMMSTEIN “ZEIT”

I Just Try To Do What I Do Best. Every Musician Craves Freedom. I’m Just Blessed That I’ve Found It.

ZEIT

RAMMSTEIN のフロントマンとして四半世紀を過ごしていながら、Till Lindemann ほど謎めいたミュージシャンはいないでしょう。Lindemann の詩集 “Messer(ナイフ)” には死と腐敗、愛と狂気の黙示録的なイメージに満ちた示唆に富む文章がドイツ語とロシア語で書かれ、気の遠くなるような、荒涼とした美しいイラストが完璧にその謎めいた彼のイメージを補完しています。
しかし、芸術を極限まで追求することを生業とする Lindemann は、ページをめくるうちに、この作品に不完全なものを感じ、鋭いナイフを探し始めます。左腕を1センチほど切開すると、血のついた指紋をつけ、原稿の上に丹念に血を落とします。そうして、ようやくこの詩集を完全なものとしました。
「前はつまらなかった。だから、もっとカラフルにしたんだ」
Till Lindemann にはかつての共産圏と深いつながりがあります。1973年、10歳の時、東ドイツのユース水泳チームのメンバーとして初めてソビエト連邦を訪れました。その5年後、将来のオリンピック選手として期待されていた彼は、1978年にイタリアのフィレンツェで開催された欧州ジュニア水泳選手権大会に東ドイツ代表として選出されます。しかしその週の夜、ポルノ雑誌を売っている風俗店を探すために非常階段を降りているところをコーチに見つかり、代表チームから追放されてしまいます。
この逸話は、Lindemann にとって初めての権威との衝突であっただけでなく、今日まで彼を動かしてきた自由への本能的な憧れ、その初期の兆候だといえます。59歳のカリスマ・シンガーは、RAMMSTEIN のフロントマンとして背中に天使の羽、顔に火炎放射器をつけていないときは、自由詩を書いたり(”詩は魂の飛行だ” とかつて語り、創作過程を “檻” からの脱出に例えた)、釣り、狩り、料理、一人旅に、その自由を見出しています。そして、RAMMSTEIN と並行して行っている音楽プロジェクト LINDEMANN にも、同じような魂の飛行を見いだしているのです。

デスメタルの巨人 HYPOCRISY とワンマン・インダストリアル・クルー PAIN のフロントマンである49歳のスウェーデン人 Peter Tägtgren は、Lindemann との関係を「結婚みたい」と表現しています。Tägtgren の存在感と骨太のユーモアが、Lindemann のやや冷めた態度を和らげているのでしょう。
2015年にリリースされたデュオのデビュー・アルバム “Skills In Pills” の後、Tägtgren と Lindemann は “血の兄弟” となり、昔ながらの友情の儀式で腕を切り、血を混ぜ合わせました。
「2人とも精神的に病んでいるような気がする (笑)。でも、それに対処できるから、僕たちはとてもよく合うんだ。何でも分かち合えるし、分かち合いすぎるくらい。僕らにタブーはないんだよ」そう Tägtgren が朗らかに語れば、Lindemann も同調します。
「完璧なハーモニーを奏でている。RAMMSTEIN での経験から、誰かと一緒に仕事をするとき、友情が損なわれることがあると知っている。でも、私たちは夫婦のようにうまくいっている。残念ながら、性的な関係はないけど……」
レディーボーイやゴールデンシャワー、恋人の肥満を助長することで得られる性的満足感など、嬉々として倒錯した歌がこのプロジェクトの特徴。自発的で自由奔放なプロジェクトの性質は、最新作 “F&M”(ドイツ語で “女と男” を意味する Frau und Mann の略)にも引き継がれています。Lindemann の長女ネレがハンブルクで制作していたグリム童話 “ヘンゼルとグレーテル” の舞台化に際して、3曲の音楽を提供してほしいと依頼したことがこの作品の発端。父とわがままな継母に捨てられた幼い兄妹が、食人鬼の魔女によって森に閉じ込められるという伝説的な物語を、ダークな雰囲気で再構築した舞台に、Lindemann は「良い背景が揃っていた」と語ります。
「ヘンゼルとグレーテルの物語は、病的で残酷だが、とてもロマンチックでもあるからね。親と子の血統という考え方がある。誰が自分の子どもを好き好んで森に送り出すのか?そして、魔女が自分のオーブンに押し込まれる恐怖。グレーテルがラテックスやゴムのフェチだというアイデアを出して、主役にラテックスの衣装を着せたりして。実は、もう一曲お願いできますか?と言われてね。オンデマンドで作曲していたから、楽しくて、新しい仕事のやり方だったな。だから、LINDEMANN のセカンド・アルバムが完成するまで、自分たちがそれを作っていることを知らなかったんだ」

Lindemann が初めて全編英語で歌った前作とは異なり、このアルバムはドイツ語版。つまり、英語を母国語とする人々は、ティルの典型的な破壊的歌詞の意味を自分自身で解き明かして楽しむことを義務付けられています。そして Till Lindemann が関わるすべての作品に共通することですが、この作品には、深く入り込むことで得られる、より重いテーマが存在しています。”F&M” を聴いた人は、この暗いたとえ話、寓話の背後にいる男の真の姿を知ることができるのでしょうか?「”この人は誰だ?”と思うだろうね」
というのも、実のところ、Till Lindemann は、先見性を持つアーティスト、洗練された文人、そして非常に評価の高い企業家として羨望の的となる一方で、25年のキャリアを通じて、”火炎放射器を持ったあのドイツのクソ野郎” というおなじみの二次元的キャラクターを超えた生身の自分を明かすことにはあまりエネルギーを使ってこなかったという事実があります。かつては、インタビューで一言も口を開かないという恐ろしい事態も引き起こしています。
「噂や囁きが Till Lindemann を取り囲んでいる。そのうちのいくつかは真実であり、いくつかはおそらく真実ではない」
2019年、RAMMSTEIN は無題の7枚目のアルバムをリリースし、14カ国以上のアルバムチャートで首位を獲得。フロントマンは世界中のスタジアムで毎晩6万人の観客の注目を集める存在となりましたが、それでも彼はロック界のトップ層の中で最も謎めいた、秘密的なキャラクターの一人であることに変わりはありません。
もちろん、彼のやり方は完全に意図的なもので、RAMMSTEIN の挑発と痛烈な社会批判は、彼らの私生活を隠すために非常に効果的な煙幕ともなっています。同様に、LINDEMANN のレコードに収録されているグロテスクで X-raid なテーマに固執する人々の多くは、それを思いついた作詞家の性格について真に洞察し、見抜くことはできないでしょう。例えば、”Yukon” という曲は、 Lindemann の自然に対する畏敬の念を表していますが、そこにはほとんど注意が払われていません。その結果、Lindemann はどういうわけか25年もの間、もう一人の自分を目立たないように隠して生きていくことができました。「私は2つの人生を持っている」と、彼は英国での最後の主要なインタビューで認めています。

昨年、RAMMSTEIN がロストク (旧東ドイツ最大の港湾都市) の Ostseestadion(3万人収容)凱旋に先立ち、同市の日刊紙 Ostsee-Zeitung は、バンドの地元のヒーローである Lindemann を、彼が人生の形成期を過ごした小さな村で追跡する企画を立ち上げました。彼は今はベルリンに住んでいますが、メクレンブルクには赤レンガのコテージがあり、手入れの行き届いていない庭が魅力的な Lindemann の生家があるのです。しかし、その時、彼は留守。近所の人たちは口を揃えて「彼は一人でいるのが好きなんだ」「放っておいてあげてほしい」地域社会もまた、彼を守っていました。
しかし、Lindemann の母親である Brigit Lindemann(82歳)は、ゲーテやブレヒトなどの文学や絵画、そして自然を愛し、地元で創作活動に励んでいた Lindemann の穏やかな人柄を伝えてくれました。元ラジオ・テレビ局 NDR の文化部長だった彼女は、RAMMSTEIN のライブをオペラにたとえ、ニューヨークの伝説的なマディソン・スクエア・ガーデンで息子のステージを見たことを思い出しながら、誇らしげに語りました。
「何が一番印象に残ったと思う?息子たちの勇気よ!彼らは人がどう思うかなんて気にしない。まったく気にもかけないの!」
Lindemann は当時の東ドイツでの生活を振り返ります。
「私は幸せな子供時代を過ごした。母は共産党員で、父は作家で自由人だった…まあだけど、彼は子供向けの本を書いていたから、当局にとやかく言われることはなかったんだ。実質ロシアに占領されていたから、ロシア料理、ロシア映画、ロシア音楽をたしなみ、学校ではロシア語を読んだり書いたりした。隣人にはロシア兵がいて、子供のころはレモネードや食料を差し入れしたのを覚えている。あのころロシアは私たちの面倒を見てくれる兄のような存在だったんだ」

しかし、こうした牧歌的な子供時代から思春期になると、両親が離れ離れになり、そこから東ドイツの抑圧的な政治に疑問を抱くようになるのは必然だったのかもしれません。1980年のモスクワオリンピックを目前に控え、競泳のナショナルチームから追放された彼は、一般社会への復帰を目指しながらも、大酒を飲み、ストリートファイトに明け暮れたと回想しています。そんな反抗的な若者が、西洋のロックに夢中になるのはある意味必然でした。
「ラジオをよく聴いていたんだ。RAMMSTEIN のアルバムに収録されている “Radio” という曲は、実はそのことを歌っているんだよ。ラジオはとても大きなことだった。土曜の夜にロック・ショーがあると、みんなで集まって聴いていた。例えば LED ZEPPELIN を聴いて、”すごい!”と思うんだ。もちろん、いつか LED ZEPPELIN のメンバーが RAMMSTEIN のライヴに来ることになんて、あのころは想像もつかなかったよ。まあ、私にとっては今でも正気の沙汰じゃないね。
初めて買ったアルバムは DEEP PURPLE の “Stormbringer” で、他のアルバムと同じように闇市で手に入れた。1ヶ月分の給料で買ったんだ。学業を終えて最初の仕事に就いたときの給料は、月580マルク、今でいう10ユーロくらいだったからね。PINK FLOYD の “The Dark Side Of The Moon” が棚に並んでいたけど、誰も買えなかったのを覚えている。ライブにも行けないし、レコードも買えないし、本当に悲しかったね。だからある意味、自分の音楽を作るのは、クラシックな音楽を聴くより簡単だった」
このような環境を考えると、Lindemann の歌詞には逃避への憧れと、恥や謝罪や後悔から自由に生きるという考えへの過激な信念が、糸のように続いていることは容易に理解できるでしょう。

RAMMSTEIN は1994年、Lindemann が現在住んでいるベルリンのプレンツラウアー・ベルク地区にあるリハーサルスタジオで結成されました。バンド独自のサウンドを作り上げた6人のミュージシャンはそれまで、ハードロック、オペラ、ジャズ、クラウトロック、西ベルリンのアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの異端的、実験的サウンドを学んでいました。彼らはまた、怒りと、型にはまったものに対する憎悪、そしてすべての人々を動揺させ憤慨させるための直感的でしかし完全に意図的な才能を共有していたのです。
「私たちは問題を起こすためにここにいるんだ。私たちを嫌う人がいるという事実が好きなんだよ。私たちはアーティストで、アートはそういう感情を引き起こすべきだ」
あの頃、再統一されたドイツが新たなアイデンティティと折り合いをつける中、イーストサイド出身の6人のミュージシャンもまた自分たちのアイデンティティを発見していました。RAMMSTEIN の鍵盤奏者 Christian “Flake” Lorenz は、ベルリンの壁が崩壊したとき自分がどこにいたかを正確に覚えています。1989年11月9日、彼が所属するパンクバンド、FEELING B は西ベルリンでライヴを行っていました。彼らの出身である東ベルリンは物理的にも政治的にも思想的にも、何十年も西ベルリンから遅れて切り離されていました。
FEELING B は、退廃的で資本主義的な西側に対して、強硬な社会主義の東側が決して “怪物” ではないことを示すため、政府の活動の一環として、街を二分するコンクリートの障壁を通過してギグを行うことを許されていたのです。バンドが演奏していると、Lorenz は観客の中に見慣れた顔があるのに気づきます。
「俺たちは友達が入ってきたのに気づいたんだ。で、俺は言ったんだ、”彼らが西ベルリンにいるなんてあり得るのか?ありえないよ。彼らは壁を飛び越えたのか?” ってね」
その夜、壁が崩壊し、建設から30年近くたったその日壁はデモ隊に粉砕されたことを誰かが知らせました。それは記念すべき出来事でしたが、そのために FEELING B は家に帰ることができなくなりました。
「壁の穴は人で埋め尽くされていた。あまりの混雑に帰ることができなかったんだ。西ベルリンで一晩を過ごさなければならなくなった」


ベルリンの壁崩壊は、世界的に見ても第二次世界大戦後、最も重要な出来事でした。ドイツの再統一、ソビエト連邦の解体、冷戦の終結という連鎖を引き起こしたのですから。しかし、Lorenz と FEELING B にとっては、それ以上にマイナスの影響もありました。
「壁の崩壊は、とても多くのことを変えてしまった。東ドイツでは誰も東ドイツのバンドを聴きたがらなくなったんだ。”本物” が聴けるようになったからね。これまで禁止されていたことが、すべて可能になった。だから、みんな新しいものを作ろうとしたんだ」
Lorenz もその一人となります。わずか数年後、彼は FEELING B のバンド仲間であるギタリストの Paul Landers とドラマーの Christoph Schneider とともに、挑発的なサウンドと無粋な世界観がこの国の分裂した過去と結びつき、同時に明るく統一された未来のシンボルともなる新しいバンドを結成することになったのです。その名は RAMMSTEIN。最も大胆で、最も物議をかもす存在となるバンドの産声があがりました。
もう一人のギタリスト Richard Kruspe は、Lorenz と同じく、東ドイツで育ちました。しかし、Lorenz が社会主義政府の下での生活がわりと好きだったと言うのに対し、Kruspe は母国との関係がより複雑でした。
「生活にはトラブルやプレッシャーがなく、みんな生きていくのに十分なお金を持っていた。つまり、東ドイツについては、12歳まではそこで育つのが最高だったということだよ。10代後半に故郷のシュヴェリンから東ベルリンに移り住んだんだ。そこでは疑問を持たない限り、質問をしない限り機能する、非常に健全な社会という幻想を見せられたのさ」
二人とも、当時の首都東ベルリンには盛んなアンダーグラウンドの音楽シーンがあったということを認めています。権威主義的な東ドイツ政府は、バンドに音楽制作のライセンスを申請させ、そのプロセスで、8人か10人の観客を前にして演奏することを強要しました。ただし、FEELING B のようなアーティスティックで過激なバンドは、歌詞を変えたり、エネルギッシュな曲をトーンダウンさせたりして、オーディションをごまかすことができました。
「たくさんのバンドがいたけれど、みんな友達同士だったんだ。みんなが他の人と一緒に音楽を作っているシーンがここにはあった。僕はその考え方が好きだった。とてもエキサイティングで、たくさんの音楽が繰り広げられていたんだ」 と Kruspe は振り返ります。
壁が崩壊した後、すべてが大きく変わりました。それまでラジオと闇市でのみ聴くことができた西洋音楽が、突然爆発的に普及し、簡単に聴くことができるようになったのです。
「1989年に壁が崩壊したとき、それは僕たち全員にとって新しい時代の始まりだった。しかし、僕たちはすぐに、西側では誰も僕たちを待ってなどいないことに気づいたんだ。東ドイツの音楽産業の構造は完全に崩壊していた。東ドイツのバンドにはほとんど需要がなく、演奏の機会はすべて西側のバンドが独占していた。東ドイツのバンドは、その音楽が体制崩壊のきっかけとなったにもかかわらず、この新しい、徹底的に商業化された音楽ビジネスで足場を築くために、自分たちの位置を変え、再創造することを余儀なくされたんだ」

FEELING B の3人は、他の東ドイツのミュージシャンとジャムセッションを始めていました。Richard Kruspe、ベーシストの Oliver Riedel、そしてドラマーからボーカルに転向した Till Lindemann たちと。そして間もなく、この半ば本気のサイドプロジェクトは、他のすべてを覆い隠してしまうことになります。
Lorenz が Till と初めて会ったのは、東ドイツで行われたギグでした。FEELING Bはよく、観客の誰かに一晩泊めてくれないかと頼むことがあったのです。ある夜、Till も観客の中にいました。5つのベッド、あるいは1つのフロアが必要だという声が上がると、彼は自分の家をそのスペースを提供したのです。
「俺たちはそこに泊まってパーティーをした」と Lorenz は言います。「そして、時々、彼の家に遊びに行って、友達になったんだ」
元天才水泳選手からミュージシャンに転身した Lindemann は、FEELING Bと出会ったときシュヴェリンを拠点とするアートパンク・バンド、FIRST ARSCH で演奏していました。やがて彼は、RAMMSTEIN の種となる課外ジャムセッションに招待されるようになります。
「目的もなく、計画もなく、ただ2時間演奏するために集まったんだ。バンドというより、本業のバンドとは違うことをするためのミーティングだったんだ。セラピー・グループのようなものだった」と Lorenz は振り返ります。
この無名の集団が最初に書いた曲のひとつは、1988年に2機の飛行機が空中で衝突して70人が死亡した航空ショーの惨事、その舞台となったラムシュタインという町の名前にちなんだもの。このサイドプロジェクトについて噂が広まるにつれ、彼らは「ラムシュタインの歌」を持つバンドとして知られるようになったのです。
彼らはすぐにこの名前 Ramstein を採用し、さらに “M” を一つ追加しました。Ramm は英語に訳すと破城槌のような槌、”stein” は “stone” “石” の意。ラム・ストーンは、彼らのサウンドにぴったりな名前だったのです。
大晦日のパーティーのために買っておいた花火を使った火の演出も、初期には試みられていました。Lorenz はこう振り返ります。「あるとき、花火をショーに出したら、”これはすごい!” 思ったんだよね。それで、もう少し増やしてみることにした」

東ドイツの観客は、以前のバンドを知っていて、彼らを愛していました。しかし、西ドイツの観客は彼らが誰なのか知らず、新しくアクセスした西半分での初期のライブの多くは、人はまばらでした。ただし、バンドと母国とのつながりは、観客の数だけでなく、もっと深いところにあったのです。Lindemann は最初から母国語で歌うことにしていました。これは、彼らが学校で英語ではなくロシア語を教えられていたことも一因なのです。
「英語がわからない人たちに向けて下手な英語で歌っている東ドイツのバンドをよく見かけたよ。でも、本当に自分の感情を伝えたいのなら、自分の言葉で話さなければならないんだ。母国語と他の言語で自分の感情を真に伝えるのは不可能なんだから」
最初の曲を完成させるのは、長く、時には険悪なプロセスでした。RAMMSTEIN は民主主義を信条していたからです。食事をする場所から曲のサウンドに至るまで、すべての決定は6人のメンバー全員の同意が必要だったのです。
RAMMSTEIN のデビューアルバムは、1995年9月25日にドイツで発売されました。そのタイトル、”Herzeleid” は英語では “Heartbroken” と訳されますが、これはこのアルバムを書いている間、複数のメンバーが経験していた恋愛問題にちなんでいます。
「ガールフレンドと別れて、とてもつらかった」と Kruspe は振り返ります。「これほど感情的に辛いことはなかった。精神的に追い込まれたよ。同じような経験をした人でなければ、僕が感じたことを理解することはできないだろうね。Till も同じような経験をしていて、仲の良い友人だったから、彼と数カ月間一緒に過ごしたよ。お互いに助け合ったんだろうな。実際、他のメンバーも当時は個人的な問題に悩まされていたんだ。最初のレコードをリリースした後、何も起こらなかった。誰も僕らを知らないから、誰も買おうとはしなかったんだ。俺たちはただ演奏して、演奏して、演奏して、徐々に観客の数が増えていったんだ」
RAMMSTEIN は、あらゆる検閲を排除しようとしていました。他人からも、自分たちからも。当時共演していた CLAWFINGER の Zakk が振り返ります。
「彼らはそれをやりたいと言ったんだ。単純な話だ。最初はとても警戒していたんだ。軍服を着て、ドイツ語で歌い、”r”を連発するバンドだ。ファシストやナチスのバカになるんじゃないかと心配になった。そこで、ドイツ語を話す友人に彼らの歌詞の一部を翻訳してもらい、自分たちが納得できるように理解を深めたのさ」

1996年の中頃には、RAMMSTEIN は自分たちのツアーのヘッドライナーを務めるようになっていました。アンダーグラウンドのバンドがより多くの観客から注目され始めたという実感がありました。バンドの印象的なビジュアル・イメージがステージ上でフォーカスされ始めていたことも手伝って、6人の男が無名の時代は終わりを告げました。また、パイロ(花火)に対するこだわりも、ますます顕著になっていきます。当時、彼らが公式に許可を得ていたかどうかは定かではありません。少しばかり規則を曲げていたのかもしれません。でも、とにかく印象的だったのです。ヨーロッパは、旧東ドイツ出身のこの奇妙なバンドに注目し始めます。その見た目とサウンドは、それまでのバンドにはないもの。6人のメンバーは、RAMMSTEIN が多くの人々にとって理解しがたい存在であったことを最初に認めていました。この謎めいた、そしてしばしば誤解されるバンドにまつわるほとんどのことに狂気が存在するからです。
「RAMMSTEIN があれほどプログレッシブだった理由のひとつは、かつて僕たちが多くの検閲を感じていたからだ。だから RAMMSTEIN では、あらゆる検閲を取り除こうとしていたんだ。他人からも、自分たちからもね。だからみんな、”俺たちは気にしない” となったんだと思う」
その自由に対する一途な思いは、数年後、カルト映画監督のデヴィッド・リンチが1997年に制作した映画 “ロスト・ハイウェイ” のサウンドトラックに彼らを起用したとき実を結びます。突然、このおかしな訛りのある狂気のバンドは、全く新しいオーディエンスに開放されたのです。同年、傑作セカンドアルバム “Sehnsucht” によって、彼らはヨーロッパ全土でスターとなり、その後数年間、ステージ上での逮捕やナチズムに対する見当違いの非難、1999年に起きたコロンバインで起きた虐殺事件をきっかけとした誤った連帯責任など、あらゆる嵐を切り抜け、成功を収めたのです。

2001年初頭、RAMMSTEIN はまだ無名の存在でしたが、彼らの画期的なサード・アルバム “Mutter” は、バンドを、そしてメタルを永遠に変えてしまう金字塔となりました。
レザーと筋肉で身を固めた、世界で最も変態的なバンド。Kruspe と Schneider は、英語での質問を十分理解していたが、意図的に通訳を介して話しました。Lindemann は、まったく口をききませんでした。クラブ・ヒットの “Du Hast” を書き、ドイツ語で歌い、たくさんのパイロを使い、 KORN のUS Family Values Tour で巨大な潮吹きディルドを使ってステージ上でお互いをファックし問題になったバンド。彼らは十分に大きくなりましたが、未だ巨大ではなく、メタルの世界ではまだ外側にいました。Schneider が回顧します。
「他のバンドがやっていることの逆をやったんだ。もしメタル・バンドが長髪だったら、僕らは短髪にする。もし彼らがスポーツウェアを着ていたら、僕らはブーツや他のタイプの服を着るんだ」
“Mutter” は2000年の冬に作曲され、2000年の夏にレコーディングされました。ドイツでの成功はこのアルバムに大きな期待を抱かせ、制作費を増やし、南仏のスタジオ・ミラヴァルで仕事をすることを可能にしました。このスタジオは、PINK FLOYD “The Wall” を、JUDAS PRIEST が “Painkiller” を、AC/DC が “Blow Up Your Video” を制作した場所。
RAMMSTEIN はここで、自分たちのある部分を削ぎ落とし、ある部分を膨らませました。曲の絶対的なエッセンスに集中することで、できる限り雑念を排除し、将来の怠惰なジャーナリストに “ドイツの効率性” を退屈そうに持ち出す機会を与える、そんな芸術的な無駄をできる限り省いたのです。
バックボーンは以前よりもドゥーミーで重厚なリズムで構築され、より壮大な装飾を施すための頑丈な土台となりました。また、以前は機械が多くの力仕事をこなしていたのに対し、より人間的で汗臭いシュトゥルム・ウント・ドラングを輝かせることができるようになったのです。
「テクノやダンス指向のスタイルから離れたいと思ったんだ。もっと自然で、もっとロック・バンドのようなサウンドにしたかったんだ。だから、生ドラムに力を入れ、アコースティックギターで実験し、革新的なギターサウンドを見つけようとしたんだ。そして、初めてオーケストラを使ったね。もう機械の奴隷にはなりたくなかったんだ」

“Links 2 3 4″ のために、バンドが炭鉱で巨大な白雪姫のために働いている映像が作られました。
「グリム兄弟のおとぎ話は、時に残酷で暴力的な面もあるんだ。私たちはいわばドワーフで、この女性を慕う一方で、同時に憎んでいる。なぜなら、小人たちは彼女のために働き、薬を手に入れなければならないからだ。そしてその見返りとして、我々は彼女を見て、彼女の美しさを楽しむことができる」
より直接的となった音楽の性質とともに、”Mutter” の世界や暗さはより翻訳されやすいものとなりました。生き埋めにされた少年を歌った “Spielhur” という曲について珍しく語った Lindemann は、「生き埋めにされるというのは、人が持つ基本的な恐怖なんだ」
作品に曖昧さがなかったのは、バンドに向けられたナチスへのシンパシーへの非難に対処するためでした。
「ナチスと呼ばれることは、ドイツはまだ信用できないという “お父さん” 的な考え方の後遺症であるとも言える」
DEPESCH MODE の “Stripped” をカバーしたビデオで、バンドは帝国時代のドイツ人映画監督レニ・リーフェンタールの作品から、1936年のベルリン・オリンピックの映像を使うことにしていました。リーフェンタールは、1934年のニュルンベルク集会を悪名高いナチスのプロパガンダ映画 “Triumph Of The Will” のために撮影した後、ヒトラーの特別なお気に入りになっていたのです。これは完全に、芸術的な挑発を意図したものでした。しかし、誰もがそう思っていたわけではありません。
「あの状況に関して、僕たちは若くて素朴だったと言えると思う…マスコミに攻撃されて、とても無力だと感じた。でも、僕の目から見れば、僕たちは正しいことをしたんだ。僕たちは常に極端なことをやってきた。極端な文章、極端なショー、極端なやり方で行動し、常に挑発的であろうとしてきたんだ。僕たちの歌詞はさまざまな解釈が可能だけど、決して右傾化することはないんだよ。でも、もし様々に解釈できる歌詞を提示すれば、人々がそれを様々に解釈することを期待するしかない。僕らは意図的に挑発的なバンドなんだ。そして、我々の挑発の頂点は、もちろん、あのレニ・リーフェンシュタールのビデオだった。僕らが右派だと思っている人たちにショックを与えたかったから、あのようなことをしたんだよ。でも、今の時代から見ると、もう二度とやらないかもしれないね」
この曲では、Lindemann がマーチの武骨なビートにのせて、いかに RAMMSTEIN が誤解した左翼と対峙し、彼らの芸術を読み違えた人々によって中傷されてきたかを歌っています
「彼らは私の心を正しい場所に置きたいと思っている/しかし私が下を見ると/それは私の左胸で鳴っていた/彼らの嫉妬は間違っていた」

「最初の頃は、英語で歌おうとしたんだ」と Schneider は当時を振り返ります。「でも Till の歌詞はとても力強いけど、英語にうまく翻訳されないことに気づいたんだ。だから、ドイツ語で歌い続けることにしたんだ。すると、よく人が寄ってきて、”なんて素晴らしいバンドなんだ、ドイツ語で歌っているのが残念だ” と言われたものだよ。ドイツ以外の国では未来がないと言われたんだ。他の国で成功するチャンスはないってね」
20年経った今、RAMMSTEIN ほどこの件について大笑いしている人はいないでしょう。壁の向こう側からやってきたこの6人の不良たちは、想像できる限りのあらゆるトレンドに逆らいながら、25年間を過ごしてきたのです。
「俺たちは西側のバンドにはなれなかった」と Lorenz は言います。「俺たちは若い頃に、協力することが大切で、一人はそれほど重要ではないと学んだからだ。だから今でも一緒にいるんだ」
RAMMSTEIN のアートが彼らの生い立ちに対する反応であったとすれば、Lindemann の個人的な倫理観もまた然り。バンドの初期には、バンドへのコミットメントと、1985年に生まれた幼い娘ネレを育てる片親としての仕事とをしっかり両立させていました。自称カルマの信者である彼は、実の父親が子育てに無頓着で、時には無関心であったことを忘れてはいませんでした。
「父はぜんぜん家にいなかった。彼は朗読会のツアーに出かけていたんだ。でも、ネレとマリーには、芸術的な生活の中で時々起こる混乱にもかかわらず、”普通の” 教育を施そうと懸命に努力した。私は間違いなくいい父親だよ。
まあ、子供が小さかった頃は、RAMMSTEIN に今ほど大きな時間的プレッシャーがかかっていなかったんだ。子供たちはいい子で、自分たちのことは自分たちでやる」

2019年の無題の作品、RAMMSTEIN の真骨頂に続く “Zeit”。大胆にもドイツ語で “時間” を意味するラベルが貼られたアルバムには、様々な時の流れが集約されています。”Liebe ist für alle da” からの10年のブランクを考慮すれば、ましてや Covid の状況を加味すれば、RAMMSTEIN のレコードがこれほどすぐに届くと予想した人はほとんどいなかったはずです。これもまた、時の魔法。前作のリリースから2年あまりの間、ツアーは大幅に制限され、一時は Till Lindemann が(COVIDではない状態で)集中治療室に収容されたこともあり、”Zeit” は時代の移り変わりや空になった砂時計、生命のはかなさをたしかに連想させます。しかしそれよりも興味深いのは、この大物たちでさえ、彼らの独特の方式でさえ、停滞を避けるために時の流れに従って進化を必要とする、その事実を暗黙のうちに認めていることでしょう。
アルバムのオープニングには落ち着いた世界の倦怠感があります。かすかに響くピアノラインと複雑で熟考されたリリック。「私たちは終わりに向かって漂い 急がず ただ前進する 海岸で無限が手招きしている」
“Giftig” は、彼らがパーティーのやり方を忘れていないことを明確に証明しています。”Du Hast” の流れを汲む、6弦とレイヴなシンセサイザーを組み合わせた短編。”Zick Zack” は、重量感溢れるリフに混じってディスコビートを使い、整形手術や永遠の若さに対するセレブの執着を皮肉たっぷりに批評。”腹の脂肪はゴミ箱へ/ペニスは再び太陽を拝む”。”Zeit” の全体的なテーマである “時を超えて繰り返し聴ける” こと。”Zick Zack” はその象徴的な楽曲でしょう。
“OK” は、”Links 2 3 4″ のキャッチーさに加え、より難解な歌詞、よりグルーヴィーなギター、そしてかの GHOST が誇るであろう大規模なクワイアのアウトロを誇る、まさに燃え盛る炎と呼ぶにふさわしい名曲。”Zeit” は単なる大ヒットのリサイクル、ノスタルジックな時の旅ではありません。
シンプルに “Sex” と題されたトラックをフィーチャーした前作と比較して、”Zeit” は彼らがいかに自己反省的で内省的かを改めて発見できる作品なのでしょう。”Angst” のような曲では、おなじみの胸を張った表現でファンが望むものを提供しつつ、同時に彼らの最も暗い恐怖をむき出しにする意志も見え隠れ。”Meine Tränen” (My Tears)と “Lügen” (Lie) では、正直な感情がより率直にむき出しにサウンドに反映されていて、前者のオペラティックなメロドラマは、後者のアンビエンス、ボコーダー、ブラックゲイズと対を成しています。そうしてパーカッシブな “Dicke Titten”(大きなおっぱい)は、ファンが期待するポルノ的な挑発ではなく、本当に膨らんだ胸への暖かい抱擁に意味を見出しているようです。
LED ZEPPELIN や Alice Cooper の雑音混じりの音楽を聞くためトランジスタ・ラジオに耳を傾けた10代の子供が、今や世界的な大スター。その未来は、若き日の Till Lindemann が思い描いた通りのものだったのでしょうか?Till Lindemann は若き日の Till Lindemann に暖かい抱擁をあたえるのでしょうか?
「そんなことは考えずに、ただ自分のベストを尽くすだけさ。音楽家は誰でも自由を渇望している。私は、それを見つけることができただけで幸せだよ」

参考文献: KERRANG!: The Real Till Lindemann: Meet The Man Behind The Flamethrower

LOUDER:Rammstein: The birth of a legend

KERRANG!: Rammstein: How Mutter took the world’s most perverse band to the extreme

REVOLVER:REVIEW: RAMMSTEIN’S SMART, LEWD ‘ZEIT’ HAS BIG BOOBS, COCK ROCK AND MORE

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